Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

新潟現代美術家集団GUN

GUN EVENT-1975

1975年に入った。1月6日にGUNの会議で長岡にでかけた。その日、私の母親が心臓疾患で急逝。精神的なダメージ,親孝行できなかったことで自責の念にかられる。多忙な教師の仕事と表現活動の両立に向けて混迷の日々がしばらく続く。 この時期は私を含めGUNのメ…

1974年4月以降

NYの砂入博史さんのプロジェクトを実施し、そのプロセスをブログにアップしたら、それを砂入さんが自身のブログで紹介。電脳世界の素晴らしさである。 http://treeproject.blogspot.com/2009/06/joetsu-city-niigata-prefecture-japan.html さて、今日の過去…

画廊巡りなどで新潟へ(6.23)

今日は画廊巡り等で新潟へ行ってきます。帰ってきてから書き足します。さて、今日の過去。この写真は1973年12月のGUN「眠り込むな」展の出品作です。教材用のブロンズ粘土を30個くらい使って、画廊の壁に直接こすりつけました。明確な問題意識やコンセプトに…

1972年の10月頃その2(初めての個展の少し前)

1971年の前山の現代展の出品作品の撤去の騒動以降、GUNのグループ活動は停止状態であった。私は絵はがきのメールアートを発信するも閉鎖的な世界にあった。そんな中、新しいメンバーとなった佐藤秀治さんが活発に。1972年の3月に「雪女郎撮影会」というイベ…

1972年10月頃

昨日(6日)は前山さんと二人で見附市でGUNの作品集を納品し、続いて新潟で売り込みで二カ所廻って一日終わった。往復280kmのドライブで疲れてしまい、ブログを書く気力もなく早めに就寝。しかし、早めに寝ると今時分目が覚めてしまう。連続的、断続的に同じ…

1970年10月〜12月

昨日の最後にメールアートの「自家中毒」という言葉を書いた。メールアートという限界のある表現制度の中であれこれと模索して、不足料金を相手側に支払わさせてしまうことを作品にしようとしたわけである。当時の自分自身の中の発想の閉塞感を示す作品であ…

1970年9月

ニルヴァーナ展と大阪万博から帰って9月に入った。学校は運動会や文化祭等で忙しくなる。それでも日曜日になるとGUN(実質上は佐藤秀治さんを合わせて3人)の活動でどこかへ出て行くことが続いた。次は、前山さんからの9月早々の案内である。新潟県民会館で…

1970年9月12日、13日

1970年9月12日(土)のこと、私は、ドイツのPaul Maenzさん宛に東京ビエンナーレ「人間と物質」展のカタログを航空便で送った。このカタログが2003年にNYの富井玲子さんからのメールでLOSのGettyに収蔵されていることが判明。このことについては別の冊子に書…

1970年8月16日

8月15日は、大阪の池田正一さんのお宅に3人で泊めていただいた。翌16日に、いよいよ万博へと足を運んだ。会場は人ばかりで、人気館は1〜2時間待ちがざら。結局入ったのは、並ばないで入れる所だけ。途中で雨が降ってきたことが写真から分かる。前山さんのふ…

ニルヴァーナ展-2(1970年8月)

1970年8月12日〜14日のニルヴァーナ展に二つの出品プラン(作品・行為)で参加した。 参加プラン1。137名宛に匿名の差出人の往復はがきで指示を出した。ニルヴァーナ展の宣伝と郵送での展への参加要請を意図していた。49名が指示に応えてハガキを投函してく…

ニルヴァーナ展−1(1970年8月)

1970年8月に京都市美術館でニルヴァーナ展が開催された。「最終美術のために」という究極的に美術を相対化するテーマを持つ展覧会だった。そこに参加したことの意義を、改めて振り返ってみる。この展については美術手帖1970年10月号192p〜201pの福住治夫さん…

1970年12月以降-6

1971年10月9日撮影。新潟、神無月のジャズ・ロックカーニバルにて。この日、山下洋輔を初めて見た。 この企画への私の関与については、先日次に書いた。 http://d.hatena.ne.jp/niigata-art226/20090501/1241127685 登場したのは、山下洋輔トリオ、頭脳警察…

1970年12月以降-2

好天に恵まれて、気持ちもよいゴールデンウィークである。今日は憲法記念日である。その憲法と関連づけて、古い写真から今日的意味を見付けてほしい。38年前の小西反軍闘争デモの写真である。写真アルバムのメモでは1971年7月5日とある。デモ自体には加わら…

1970年12月以降

大阪万博以降、11月に三島由紀夫の自殺があったりで、時代は閉塞感を増してきていた。その中で、小西反軍闘争に関心が向いて行く。そこには、反戦平和への希望があった。前山さんと新潟まで裁判闘争に出かけて行ったわけだが、前山さんはわざわざそのための…

1971年10月

1971年に入った。3月のピナール画廊での「言葉とイメージ」展で新作「零円切手」とGUN全国郵送戦線の機関誌と「石を送るメールアート」を出品したが、「石を送るメールアート」が朝日新聞の社会面の全国版に取り上げられた。新作に注目が集まらず、石の作品…

前田常作先生のハプニング(’69.8)

前田常作先生は、美術手帖の別冊「アンフォルメル以後(’64刊)」で関心を持ち、毎日現代展や長岡文化会館ロビーの大絵画の本物を見て憧れを抱くに至った人である。その先生に初めてお会いしたのは前山忠の作家訪問に同行した際で1967年のことである。その際…

第6回北陸現代作家集団展(1971)にて

1971年の第6回北陸現代作家集団展にNIIGTA GUNとして参加。この頃は、メールアートに熱中し、作品はハガキ、プリントや写真という形が多かった。物質的に大きな作品をつくる表現についての羅針盤を見失っていた。精神的な空洞も抱えていた時期で、斜に構え…

「美術という幻想の終焉」展(メモ)

初めて松澤宥さんにお会いしたのは、長野市信濃美術館での「美術という幻想の終焉」展のシンポジウムに参加した1969年8月10日のこと。勤務地の十日町から飯山線で長野まで出かけたのである。 この年の1月、デザイン批評で峯村敏明さんがアラン・ジュ…

「雪のイメージを変えるイベント」-2(羽永光利さんのこと)

東京画廊さんとの共同で1970年2月11日と15日に行われた新潟現代美術家集団GUNによる「雪のイメージを変えるイベント」の記録を高級顔料印刷で出版する企画が進んで、最終段階を迎えています。昨日、前山忠さんとサインを入れる作業を行いました。次は、市…

GUNのスピリッツ(角さんとのこと-2)

「GUNの軌跡」展のレビューが新潟日報に載りました。意外と早い掲載でした。記者は藤島俊會さんです。その中で、見出しの「懐旧談」と「出発には芸術の初心があった」の二つに得心しています。「日本の文化の中では前衛を走り続けることなど構造的に不可能で…

「GUNの軌跡」展を終えて

トキ・アートスペースでの「GUNの軌跡」展が終わりました。まずは、機会を与えていただいたトキさんに心から感謝を申し上げます。 それから、前山さんが6日間の会期中、会場に詰めていてくれたこと、ありがたかったです。 今回のまとめとして書いておくべき…

堀川による前山忠-2

GUN展の4日目である。前山が会場に詰めていてくれるので感謝している。今日は「貘三太郎」のペンネームで2005年9月14日付けで書いたコメントを紹介する。 私設アートレビュー前山忠個展 2005年9月9日(金)〜9月14日(水) 長岡市・ギャラリー沙…

堀川による前山忠-1

美術表現についての自分の考えを、それなりの文章で書けるようになったのは40歳に近くなってワープロを使うようなってからである。手書きからタイプライターそしてワープロへと変化するに伴って、文章も長く書けるようになってきたように思う。さて、前山忠…

GUNの軌跡展レポート-2

東京でGUNの展示は1968年以来で、41年ぶりである。昨年1月に長岡のmu-anでGUNをきちんとまとめて紹介する展示の機会をいただいた。それが、今回の「トキ・アートスペース」での展示につながったわけである。この展覧会を契機にGUNが再びグループとして活発に…

GUNの堀川•堀川のGUN-1

今日は、朝7時の電車で東京へ出て、色々と用件を果たし、5時より「GUNの軌跡」展のセッティングです。モバイルではないので、ブログは2日間お休みです。 以下に紹介する冊子〔新潟現代美術家集団GUNの軌跡1967-1975」は会期中、会場で2000円で頒布いたします…

GUNの前山•前山のGUN

昨日紹介した「あいだ」158号のインタビュー記事から、前山忠が1971年現代日本美術展で出品作品を撤去した事案に関する部分を掲載(引用)させていただき、その現場で撮影した写真を掲載します。まずは白黒写真で。壁面には大きな旗が3枚。机には反戦ステッ…

「GUNの軌跡」展の案内

aw-mlに送信した同じ案内メールを掲載いたします。5日の5時からセッティングです。6日、7日、最終12日は会場におります。是非、ご高覧くださいますようご案内いたします。 GUNの軌跡展—新潟現代美術家集団GUN結成 そして今 前山忠,堀川紀夫,佐藤秀治…