Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

「雪のイメ−ジを変えるイベント」-1

現在、東京画廊さんとの共同で1970年2月に行われた新潟現代美術家集団GUNによる「雪のイメージを変えるイベント」の記録を高級顔料印刷で出版しようとする企画が進んでいる。もう少しでその企画が実現する。
また、福住治夫さんの月刊「あいだ」の次号で新潟現代美術家集団GUNへの25pに及ぶインタビュー特集も組まれている。この時点で、この二つの企画と重複するものも一部あるが「雪のイメージを変えるイベント」に関する未発表の記録、写真、テキストを紹介したい。
当時、イベントの記事が掲載された「アサヒグラフ3月6日号」と「アートナウ」、その他に「芸術生活4月号」があった。

次の写真は初公開のものである。

テキストその1として、1985年に美術教育のゼミ用に作成したレポートを掲載する。

「雪のイメ−ジを変えるイベントの生成過程の考察」
 新潟現代美術家集団GUNの表現活動で成し得たアースワーク「雪のイメ−ジを変えるイベント」の生成過程を考察してみる。
 というのは、今日の図画工作科における「造形遊び」の内容から逆照射される脱教室・脱領域的な表現構造の原形の一つをそこに見るからである。
 このイベントを端的に解説すると、200M四方程の信濃川の川原の雪原に5人で合計100kg程の赤・青・黄・緑の顔料を農薬の噴霧器等を使って撒き散らして巨大な抽象絵画を描いたものであった。このイベントを行ったのは1970年2月のことであるが、写真や文書のドキュメントが残っており記憶もきわめて鮮明である。

第一過程
 新潟現代美術家集団GUNの前衛的芸術パワーを更に全国的にアピールするために「イベント」を実行することになり、メンバーよりプランを募った。そして、漠然とではあるが「新潟の雪」を使ったものを考えようということになった。何を使って、どのように、どこの場所で、何時という具体的なこと、予算的裏付け等についてはまだ全く見通しが立っていない。

第二過程
 そのうちに「色を使って雪を染める」という具体案が浮上してきた。それを、東京でのGUN展の折に知り合っていた、また当時新潟水俣病の取材や企業のキャンペーンで度々新潟を訪れてもいた写真家のH氏に会う機会があったので話をした。H氏は、前衛舞踏やそれまでのハプニングや芸術家の行為を数多く目撃・記録している方で興味、関心を示し協力を約束した。
 そして、顔料調達のためにH氏の考えで企画書を書きカラープランニングセンターに(こちらからはI氏も同行した)協力を要請し受諾された。
 また、イベントの実行場所は、筆者の勤務地であり、またI氏の友人の建築家のY氏もいて、また豪雪で有名な十日町市信濃川大橋の下の川原と決定。I氏とY氏は一級河川信濃川の川原の使用許可のため建設省に出向いて認可を受けた。Y氏が加わってもらったのは、十日町雪祭りの「雪造の作品」に参加し脚光を浴びようという意図もあったからである。祭りへの参加は、雪を染めるということは雪の白いイメ−ジを損なうということで拒否された。そのことから、このイベントの挙行が逆に地元の織物企業主導の雪祭りへの対抗という性格を帯びることにもなった。 
 尚、イベントの記録及び美術雑誌等への掲載売り込みは全てH氏が担当することとした。
 この間に、筆者は農薬噴霧器を一台調達した。そして実施日を決め、全メンバーに参加を呼び掛けた。実施は2月11日の休日であった。
第三過程
 どのような形象を雪原に描くかということについては事前に共通のイメ−ジはなかった。そこで10日の午後、最初の試みとして準備に一番貢献したI氏のアィデアでやってみることになった。I氏は通常のタブローをそのまま巨大化した完成像を思い描いていたようであり、なかなか思う通りの形象を描けなかったという。だから、全体想の修正を余儀無くされることとなった。
 この第一回目の結果に基づき改めてどのような形象を描くかその日の夜に検討した。そこで、筆者は「完成像をあらかじめ描かず、雪原に参加者が体ごと思い思いに色をまき散らすことによって巨大な作品を現出せしめよう」と提案。その提案に活路を見出して、とにかく実行あるのみということになった。
 次の日、運よく新雪に恵まれた。表現行為参加者は筆者を含め5名。写真家はH氏にI氏(現在雑誌フォーカス等で活躍している)も加わって2名。地元のY氏は見届ける立場。筆者の担当した色は赤。条件が整って、いよいよ実行。雲が切れ太陽も顔を出してくれた。
 純白の雪原に農薬噴霧器に色・顔料を詰め、あるいはバケツに色・顔料を入れて各々が即興的に思い思いの形象を撒き散らし、体全体でぶちまけた。足跡、体の跡、実行者それ自身も造形の要素となった。
 表現すべきイメ−ジがそれぞれのメンバーの内にあらかじめはっきりと在ったわけではない。雪原に顔料をもって挑むという行為が先行することによって表現内容・イメ−ジが生まれてきたのである。
 イメ−ジ生成の磁場を目撃した興奮の声が聞こえてきた。橋の上から「奇麗だ!成功!成功!いい写真が撮れたぞ!」の声がかかった。製作の実行者達にはその全体像が見えなかった。しかし、おおよその感じは伝わってきた。早く橋の上に上がって全体像を見てみたいと思った。
 表現行為者5名が橋の上に上がったと同時に、突然雪が振り出してきた。その数分後に巨大な抽象絵画は白に被われて見えなくなっていった。そして、「乞う御期待!」の声を残し、写真家達は帰って行った。

第四過程
 撮影された記録がまずアサヒグラフ誌に続いて芸術生活誌に紹介された。
 その数枚の写真が、事実のイメ−ジを背後に秘めて現在も語りかけてくる。そして、実行者本人達の内部においても、この記録としての数枚の写真によって当日の体験的記憶、イメ−ジが規定され形成されているようである。

 このイベントに関して筆者のみに固有な記憶は、農薬噴霧器のプラスチックの容器部分に顔料が染まったようになり、汚れを落とすのに洗剤を使ったりして苦労したこと、また、そのことをあやまりつつお酒を一升添えて返しに行ったことなどである。
 市民の反響として、その後一ケ月程して雪解け時期にまかれた色が表面に浮かび上がり、橋を通るバスに乗った町の人達がたいへん驚いたということである。また、「変な先生方が来てやったものだ。めずらしいものを見てよかった。」という話が町の噂になっているとも聞いたことがある。
(H氏=羽永光利)
イベント終了後の後片付けのワンカット。

(中、下の写真©羽永光利)