Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

前田常作先生のハプニング(’69.8)

 前田常作先生は、美術手帖の別冊「アンフォルメル以後(’64刊)」で関心を持ち、毎日現代展や長岡文化会館ロビーの大絵画の本物を見て憧れを抱くに至った人である。その先生に初めてお会いしたのは前山忠の作家訪問に同行した際で1967年のことである。その際に持参した拙い作品に励ましのことばをいただいたことは忘れない。前田先生は、その67年と69年8月の糸魚川市展に審査員として来られた。当時の糸魚川市展は公開審査方式で、まさに新進気鋭の大岡信(’65.’68)や岡田隆彦(’66)を招聘するなどでとても進取の気概にあふれていた。私は、67年にはバッタで画面一杯に埋めつくしたような画面からシンメトリカルに展開した「儀式あるいは祭壇.1」というタイトルの作品で奨励賞。その後GUNに加わって飛躍し、69年には新作の「石を送るメールアート」で大光賞なるものをいただいた。前山も新作の「バネの作品」で受賞した。
 審査の後、前田氏が会場の中央公民館の海側の窓を指して「この窓の風景はマグリットの風景ですね」と話された。前山は、それに「ちょうど絵のように鳥も飛んでいますね」と応えていた。私には、石を扱うのは良い着目であり、表現を深めるために何かの仏典を読むように勧められたが、当時のメモにその内容についての記載がない。聞き返せば良かったと振り返っている。
皆で前田氏の話を聞きながら一緒に海岸へ出た。そこで数日前の豪雨で流れ着いたと思われる五〜六mの流木を発見。それを見て、皆で力を合わせてその流木を移動するハプニングをしようということになった。前田氏も「初めての体験なので是非。一度はしてみたいと思っていました」と言われた。私は前田氏のハプニング姿は貴重だとカメラマンを務めてスクープ映像をものにした。(1969.8.22)
 残念ながら、先生は一昨年の10月に急にお亡くなりになられた。12月のお別れ会に出席させていただいたわけですが、ここで改めて哀悼の意を捧げ、謹んでその映像を掲載させていただきます。



その先生を介して、11月に当時東京造形大学の学生であった稲憲一郎、竹田潔の両氏と会って、12月からの「精神生理学研究所」の活動の加わることになるのである。
 
先生は’72年に近くの妙高高原赤倉温泉の昭徳稲荷神社の本殿の壁画を描かれた。そのいなり記念館には沢山の作品が収蔵され、春と秋の例大祭に必ずおいでになられた。それで、その後何回もお会いする機会があり、励ましの言葉をかけていただいた。また、先生が審査員の一人でおられた富山の近代美術館で行われた日本海美術展では、86年「Snow Performanceシリーズ」、99年「天象シリーズ」で2回奨励賞をいただいた。その際、私の制作意図を見通され、美しい言葉でコメントを書いてくださった。それは、今の私を支える大事な宝物である。