Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

1974年4月以降

NYの砂入博史さんのプロジェクトを実施し、そのプロセスをブログにアップしたら、それを砂入さんが自身のブログで紹介。電脳世界の素晴らしさである。
http://treeproject.blogspot.com/2009/06/joetsu-city-niigata-prefecture-japan.html
さて、今日の過去。
1974年4月1日 新井市立新井中学校に転勤。50名の学校から1000名以上の学校への転勤と実家からの通勤などで生活が一変する。背が大きいということからか女子バレー部の顧問をさせられる。超多忙な毎日となる。
そんな中、実家の押し入れの引き出しから発見した「御馬上の聖上陛下」のことに大きな関心が向いて行った。そのチラシの実物は72年の個展で戦時中の新聞と一緒に展示していた。その天皇の画像を、いまなお私たちののアイディンティティを制御するイメージ・シンボルと捉え直し、それを拡大リプリントして展示してみることを決意。

発癌性イベント」展での展示とパフォーマンス

このパフォーマンスの意味について「新潟現代美術家集団GUNと私(現代美術自分史)2008.4」より。
「この時、私の作品は生家で見つけた戦時中の和田英作画伯作の「御馬上の聖上陛下」の図版を全紙大に拡大リプリントした全紙ポスター十四枚を連続して貼ったもの。そして、その前で布団に寝て起きてからリンゴを食べるという30分ほどのパフォーマンスを行った。
今の時点でそのことの意味を検証してみて、69年のジョンレノンとヨーコのベッド•インと同じ要素を持った一人芝居だったと気付いた。つまり、天皇や国家のことを考えるより個人それぞれの生活のことが大事、という時代の雰囲気と自分自身の生活の安定、結婚願望等が投影された意味行為であったと納得している。」
 
この頃、GUNのメンバーは入れ替わり立ち替わりであった。それぞれが、それぞれの新たな自分探しをしていたようである。この時期の自分の考えのメモがない。会合では司会者みたいな役目をしていた。
GUN展前の会議(1974年9月8日 長岡にて)

長谷川 
諏訪之瀬島のコミューンの土着運動に関わる。署名運動など。吉井、北条氏とつき合いあ
り。十日町の山村生活を基盤として。自然との関わり、状況との関わり。
この前のような会場を借りてのコミットの仕方に疑問あり。空間そのものが閉鎖的になっ
てしまう。同じ金を使うなら、社会との関わり、機会文明に対抗する色々な方途を探る。

前山 
労働運動に熱心に取り組んでいる。今は文化活動に関わりが少ない。文化問題の視座を資
本主義社会という遍在の中で押し進めて行かなければならない。展覧会、非展覧会、有効
性において特に大差ない。一人でも闘う人間が出来ればよい。人が叫ぶ生の声を収録して
みたい。

関根 
油絵、顔をテーマに描いている。高校の恩師の遺作展に関わっている。ベニヤに描いてい
る。そんな作品をGUN展に出品してみたい。

大久保 
武蔵美術の2年である。
新潟現代美術家集団GUNとの関わりは深い。垣間見ていた。
東京に出てみると、新潟の土着性が自分の中にある。十日町信濃川などの自然に培われ
てきた自分がいる。今年の春何かやってみようと思うようになった。GUNの不活発さが寂
しい。GUNは何をしてくれるのか。新潟出身という意識がある。中央→地方という構図が
ある。意識の上では違う。いろんな渦の中に自分を置いてみたい。

佐藤 
GUNに入って、いろいろ勉強してきた。自分の中で社会的なものはそれほど大きく関わっ
てこない。何を選ぶか考えたい。何かを選ぶ。テーマは大きくない。

北村 
昨年の12月以降、何もやっていない。一級地に転勤。何かやろう。

富樫 海でちょっとしたことをやった。

討論 美術の社会的役割

長谷川 
生活を確立していく闘い。生活の実存化。人類に未来はあるか。人間−自然−海 酸素の
発生率が低下している。自分が未来を創造する。宇宙的視座。国上寺−修験道 自然の
動物に学ぶ。兵法とは、相手を倒すことではなく、自然の中にとけ込んでしまう。人口問
題。

(1974年9月28〜29日 GUN「発癌性イベント」展・大島画廊にて)

文化を考えるシンポジウム   (1974年11月7日(日)1:30〜 司会 堀川)

自己紹介 

長谷川 
共通の基盤とは何か。3年前とはっきり区別できない。

経田  
地方における文化とは、自分の周りと自分の関係である。各地のグループ活動について、安易な連帯があり得ないと言うことが分からない。良い面として、コミュニケーションが成立する。

長原  
また会うまでどう生きるかという出会いの場として位置付ける。

佐藤  
シンポジウム形式で集まると言う形で流れていく。シンポジウム形式の持っている限界がある。話し合っても堂々巡りである。寺山修司を囲んでというような取組を考えるべきであろう。同じ形式でも繰り返すということに意味はある。

前山  
今、進行している地殻変動がある。ここを掘ってもだめな面がある。個の持つ閉鎖性をうち破って行くことが大切。シンポジウムのもたらす発展性への幻想はない。
集まればよいと言うことではなく、個をうち破るという意味での場として位置付ける。寺
山修司が来たって変わるわけではない。

経田  
参加する人が主体的に責任を持って参加してほしい。三条でのシンポジウムでは観客とし
てただ参加する人が多い。

今井  
集まる意味づけは難しい。現実的な運動の方向を生み出していきたい。

吉井  
新潟での集会をもう一度。3年前にほっぽりだされた状況がある。NHKの◯◯記者は10人以上でも集まれば、ノーギャラでフイルムを持って来たいと言っていた。

長谷川 
ドロップアウトする可能性を考えたい。=社会へのドロップインを考えたい。プラスの面を期待する。アウトもインも同じである。

吉井 
漬け物の漬け方も文化である。生活文化。失われつつある文化を記録に残す。

前山 
文化は分断されている。新潟には交流する場すらない。

北条 
漬け物がうまい。頭でつくることではなく、良いものに触発されて生活を変えていく。原
発と漬け物の問題は大きい。

前山 
生活との連続性において話し合いの場を位置付ける。
(以上文責堀川)

翌75年には、富樫和人を加えてGUNのロゴをプリントしたおそろいのシャツを着て車で県内を回って山や川で突発的なパフォーマンスを試みたり、長野•群馬県白根山の火口にGUNのロゴを石並べして描いたりした。グループによる行為や展覧会の開催という共同体験により新たなる表現の契機をまさぐっていたわけである。

「御馬上の聖上陛下」のポスターを1976年の真木画廊の個展でも展示。
http://d.hatena.ne.jp/niigata-art226/20090423
かなりの人が見てくれたが、会場に詰めていたのは初日と最終日であった為に誰がどのような反応を示してくれたかは記憶にない。確かなことは自分自身の中に戦略的な仮設、それなりの確かな考えがない状態だった。

2008年の「新潟現代美術家集団GUNの軌跡」展(長岡mu-an)で再展示。パフォーマンスも再実行。