Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

長岡現代美術館以後(読賣アンデパンダン以後)

事の発端は富井玲子さんの論文
「日常性への下降」から「芸術性への上昇」へ
赤瀬川原平・他《模型千円札事件》における作品空間の生成と移動 を読んだ事に始まっている。真面目に自らの来し方を遡行している活動の所産である。
この論文は2004年平凡社発行の『うごくモノ 「美術品」の価値形成とは何か』に所収されているものである。
改めて読んでみると、この論文の標題は宮川淳の1964年の美術手帖4月号に掲載されている「反芸術 その日常性への下降」という論文からから来ている。1964年は私の大学入学の年であり、現代美術作家としての私はまだ生まれていなかったと言える。1964年は私が18歳まで育って、大学に入り、ミロのビーナスを見て、その後7月に父親を亡くし、東京オリンピックがあってなど、精神の急激な成長を余儀なくされた年である。そして、翌年の1965年頃から意図的に自己の世界を拡大しようと好奇心・冒険心を燃やし始めたのである。
 改めて気付いた事は、これまで1964年までの戦後美術の歩みについては「読賣アンデパンダン」で様々な芸術上の冒険があったことの認識があり「岡本太郎 今日の芸術」は一応読んでいた。新潟という地方では東京等へ出向いて行かなければ新しい事は何も見る事が出来なかった。長岡現代美術館が1964年に開館している(この年の第一回長岡現代美術館賞展は見ていない)。1965年から美術手帖を購読するようになった。また、この年に新進気鋭の大岡信糸魚川市展の審査員にこられ、前山忠のアンフォルメル的な作品が評価された。
ここの所に、私のスタートラインがあったと思っている。そのことについて、これまで特別に掘り下げることはなかったが、1964年の宮川淳の論文を昨日初めて読んだ。その関連で1963年まで続いて第15回で終了した「読賣アンデパンダン」のことについて記録を漁ってみた。
1964年の美術手帖が12冊前山さんのところに揃っていて、借りる事が出来た。
自分のスタートラインの1965年頃の認識として確かに言える事をまとめておく。
1  これまで学んで来た中にはない美術の価値判断の考え方がある。(高校の美術の授業での学びや大学の先生に学ぶことに疑問が沸き、新しい世界が他のあるという意識。)
2  東京へ出ると魅力的な作品を沢山見る事が出来る。
3  1964年以降の美術雑誌に出ていて魅力的だった作家達はそれまでの10年間くらいの間に読賣アンデパンダンを中核とした活動の場で育ってきたスター達であった事。
4  長岡現代美術館賞展に読賣アンデパンダンで育った若い作家達が多数ノミネートされていたこと。
この4つの視点の3,4については既に与えられたものとして捉え、ほとんど遡求しなかった事が痛切に思われたのである。つまり、得体の知れない作品が物議をかもしだした生ものの現場を見ていない。
今日、限られた資料であるが「読賣アンデパンダン」の時代を彩る「ネオダダ」「不在の部屋」「東京ミキサー計画」などについて網点の写真を凝視しつつ新しい視点を見いだして興奮しているわけである。今初めて、現場を全く見ていない兄貴分の作家の皆さんにお会いしたようである。

今の時点で宮川淳さんの論文を読んで、確かに見えてくる世界があった。それは私は長岡現代美術館以後の作家である、ということ。
初めて見たダダカンの第12回読賣アンパン作品。(美術手帖 1972年5月号より)

美術手帖 1964年4月号より

篠原さんのボクシングペインテングは今年で50周年になる?。いずれにしても、特記される継続力です。

今日で、このブログが366回目である。新たなスタートの気持ちで頑張ろうと思います(一部修正と追記)。