Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

原点への遡行-X

新潟在住の若者が1964年は初めて東京に出て「ミロのビーナス」や第6回現代日本美術展を見た。その後は秋の東京オリンピックが記憶に残る思い出。高度経済成長のど真ん中、確かな変化を見せる電化製品、ビートルズなどの流行。そんな時代の開放感の中で髪を長くし、多様な表現の世界があることに興味を持つようになっていく。美術手帖を定期的に購入しだしたのは1965年4月からのこと。「アンフォルメル以後」「読賣アンデパンダン以後」がスタート地点だったといえる。
1964年7月発行の美術手帖の増刊号「アンフォルメル以後 日本の美術はどう動いたか」という冊子がある。そこには加納光於、磯辺行久、山口勝弘、オノサトトシノブ、前田常作、向井修二、ハイレッド・センター高松次郎赤瀬川原平中西夏之)、荒川修作工藤哲巳の11人が選ばれて輝いてスターの光を放っていた。
これらの作家の数名が長岡現代美術鑑賞展にノミネートされている。長岡へ行けば美術の最先端を見ることができる。だから、美術界の新しい動きが身近に感じらてくる。東京へ出なくても長岡に行けばよい。しかし、最先端の美術のコンセプトを自分なりにすぐさま咀嚼できる訳がない。この頃に自分なりに理解できたのは向井修二だけだったように思う。記号で画面や部屋を埋めつくす行為がわかりやすかったのだと思う。向井さんはその後どうなったのか?
読賣アンパンのことは篠原有司男さんの自伝「前衛への道」の連載(1966年)を読むことで垣間みることができた。そのスター達を追いかけていこうと思うわけだが、何をどうすればよいかわからない。篠原さん表現の中身に心を動かされたのではない。篠原さんの行動力、ハチャメチャぶりが「前へ出ること」への勇気を与えてくれたように思う。
その後30年以上後に赤瀬川さんが書かれた「反芸術アンパン」を今になって読んで、読賣アンパンの後期に活躍したネオダダの皆さんを手前勝手に兄貴と位置づけて歩いてきたことに改めて納得しているのである。
拙い成長過程の一端を手を替え品を替え書いているが、今日の結論は美術手帖が前衛的な表現へと誘う重要な情報源であったことである。
この頃、思い出の美術手帖。読賣アンデパンダン以後の動向。この「岐阜・アンデパンダン・アート・フェスティバル」での「グループ位」の穴を掘る行為は強烈に頭に入った。この時に「作家自身が檻の中に入った作品」という池水慶一さんの話を聞いたのはもう少し後である。

2007年4月にLosのGetty Centerで篠原さんのBoxing Paintingを初めて見た。1960年代に始まった篠原さんのハチャメチャな絵画がトレードマーク、スタイル、方法としては継続されていることに驚き桃の木山椒の木でした。