Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

「舟見倹二•版の軌跡」展スナップ

昨日、前山忠さんの車に乗せてもらって「舟見倹二•版の軌跡」展を見てきました。(会期は本日まで)舟見さんは昨年からほぼ一年がかりでこの個展に備えてきました。舟見さんは今86歳です。衰えを全く感じさせない展開です。
会場スナップです。




前山さんです。


舟見さん自身によるコメントです。
「One Mart EXPRES」によせて
 「変容する版の軌跡」その遍歴を追う —新たな振幅を求めて—
 私が本格的な版画作品を発表したのは1978年、東京赤坂の村上画廊の個展である。当時、主体美術協会展の会場によく見えておられたモダンアート協会の朝妻次郎さんが私のシルクスクリーンを見られ、その画廊に紹介されての運びでした。その一年前1977年第一回日本現代版画大賞展が公募されていることを知り応募したのが、現代版画コンクールに関わる始まりで、他には日動画廊、サンシャインのりゅう画廊等が企画する現代版画公募に出品。また、1981年の第一回西武美術館版画大賞展やセントラル美術館等が主催する公募展に続けて応募する。選に入った多くの作品群は、それまでに見てきた都美術館等の版画系団体展で観る作品と異なり、若い世代の感性があらわに感受され、版の現在という新しい世界が展開し、私の版制作へのステップともなった。また、国外への応募はリュブリアナ、クラコウ、ソウル等ビエンナーレ等と1990年代まで続く。そこには抽象、具象を超えたグローバルな版の世界が展開していた。それと共に1981年東京の銀座ギャラリー「ヤコブ」等で先のコンクール作品のオリジナルを中心に個展が続くが、その場の緊張感は次の表現に向かう問いにもなる。
ここで、新潟県内での個展等について触れておきたい。それは版面上の振幅として現れ、イメージの様相、その移り変わりの契機になった。
1985年は、新潟伊勢丹開館に伴う企画展で初めて新潟での私の本格的な版画の個展が始まる。これは、先の「りゅう画廊」の「期待の新人作家」大賞展が新宿伊勢丹の美術ホールで開催され、新潟の作家として候補になったものと思われる。また、1986年から続けて発表した新潟のギャラリー「アトリエ我廊」での個展は90年半ば近くまで続く。年ごとの新作発表には、当時の市美術館長の林紀一郎先生がいつも見えられ、生成する版への論理的なコメントをいただく。それは、初期の光芒のイメージからストライプ併走と次のウエーブによる面を形成する時代である。また、我廊オーナーの藤由暁男さんが東京フジテレビの美術館にも関わりを持たれ、ちょうど開催されていたジョーン・スカリー展に私も新潟個展中に出向き、重層したストライプの埋め尽くされた油彩大画面の作品群に感動し、たたずんだ印象は今も忘れられない。
その後1990年には代官山で北川フラムさんが主宰する「ヒルサイド」ギャラリー(アートフロントギャラリー)での企画展があり、方形の大形パネルに構成したストライプからウエーブに移った版を主に展示。全て白黒金銀それぞれのフラットな面構成で、美術評論家の藤島俊会氏が見え、「空間の表現に新手法」と題し「絵画空間に作者の思考と感情は世界に対する姿勢、あるいはスタンスとして・・・」と県人アートに書かれた時である。その年、長岡市立図書館の版画資料の作成に関わり、同館内の長岡美術センターで、「抽象、変貌する空間表現を求めて」とのタイトルで大規模な作品展もできた。作品は、1952年から1990年までの油彩から版画表現全作品の中から70余点を選び、その変容を一堂に開示、まさに軌跡展ともいうべき抽象表現の可能性を追う大きなイベントになった。また、1996年上越市の高田図書館の市民ギャラリーで舟見倹二「版の現在」展と題し、これまでの美術図書に掲載された原オリジナル作品と共に新作の大形版を地元の皆様に見ていただく企画展が館からの話で実施開催される。そこでは初期のストライプ〜その後のウエーブ作品を主に展示しパネル作品の立体化も試みる。
 これらの個展とは別にアートの現場「現代美術」への活動体験に触れておく。それは、新潟県内の若い作家群である現代美術系の人達でその活動に参加できたことであり、1990年以前の1987年に旧長岡現代美術館で行われた「新潟現代美術32人展」である。館内には県内で開催される諸美術展とは異なり今までのワクを超えた平面と立体作品が個性豊かに展開し、それぞれの主張が感知され、まさに現代アート。その際の「いま、表現、新潟」からの発信として、パネラーに高島直之、北川フラム、松枝到、林紀一郎の各氏を迎えてのデスカッションは、私には始めての出会いであった。出品者の発言誌も残され、視覚で問うアート作品に言葉が言及し、新たな創造への視点を認識する機会ともなった。それにしても、本展の企画と事務局の仕事をされた現代美術家堀川紀夫さんの力は大きく、以降の美術展の起点となったことは確かである。これらの動向は、1988年に創庫美術館の創設につながり、新潟現代美術「点」展が1992年まで続く。また、1989年に新潟市美術館で新潟現代美術「マグニチュード」展が開催され1992年まで活動を展開。このような今日のアート、現代美術への関わりは現在までも続き各種のテーマ展にも参画することになる。これらは平面表現の可能性を拓くと共に他領域の創作へと誘い、時代や社会との関わる中での自己の作品性を現在に凝集していくアートへの萌芽ともなった。
その後の個展では2005年妙高市の赤倉にある昭徳いなり記念館で「新潟の作家シリーズ第一回展」が企画されて、それまでの数年間の大形作品を展示する。この館は、前田常作先生等のコレクションで知られ、社の催しで見えた氏と幸いにも一夜を過ごし作品を観ていただけた。私はこの「舟見倹二の世界」版の現在展パンフの小冊に記載した文章の中に作家の中村一美氏の言葉を借りた。それは、「芸術が人を死に追いやる・・・」という一節である。それは、アートの理念ともいうべき作品生成の原点をも打ち砕くもの思われた。私は大きくその言葉に打たれた。今またその言葉を付記させていただく。
あの9・11から10年過ぎた今、3・11の災害は意味の差こそあれ人為のさけがたい事象とすますことはできない。このような中で今作品を創り続ける私はと、再度問い続けなければならない。また、さかのぼるが1990年の長岡美術センター個展パンフの末尾に「それにしても美の改革者はいつも私の前を通り過ぎていく。時には私をも誘い込む不思議なある隔たりを持ちながら・・・しかしいつの間にか私自身がそのとりこになり生み宿し痕跡を残す羽目になるのですが、実はこの変革者こそ現代美術を思考している人達のこと」と書いています。さて、今回「ONE Mart EXPRES」展として、若い県内作家の人達と共に新潟市立美術館市民ギャラリーで1970年代からの版作品を展示する。
現代美術は一つの歴史の中に組み込まれたとは言われるが、この感覚への振幅する版平面はどのように観えてくるのだろうか。ここに年代を超えて交流への新たな場が生まれれば幸いである。私の現在に至る軌跡展であっても。

2011年9月20日 舟見倹二