Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

府中市美術館「石子順造的世界」展へ

ギャラリー間を見て新宿ー中央線ー武蔵小金井へ。そこで昼食をとり、遅れると失礼なのでタクシーで府中市美術館は行きました。「石子順造的世界」展の開会式に出席することが今回の第一の目的。この展覧会のパンフとカタログ(そして入り口の縦型ののぼりにも)に私の撮影した写真の石子さんが使われていたのです。


この写真を私が撮影ました。

が、目的は他にも用意しました。この機会を利用して当時美術手帖の編集長をされていた宮沢壯佳さんところに送った「石を送るメールアート」を見せていただく事にしたのです。
しばらくして宮沢壯佳さんが奥様と到着。1969年の8月と11月に私が送った「石」を持参してくださいました。挨拶しているうちに富井玲子さんも到着。富井さんと一緒に石を見せていただきその写真を撮らせていただきました。その折峯村敏明さんも来られて開封された直後の宮沢さんの石を見て、侮辱的な言葉を発していました。その言葉について私は確かに記憶ししていますが詳しくはここに書きません。峯村さんにも宮沢さんに送った同じ時期に石を送っています。著名な美術評論家の無責任な言葉でしたが真意は分かりません。(付言しておきますが、峯村さんは1970年の東京ビエンナーレの時には毎日新聞の事業部おられて展覧会の担当をされていた方です。)
宮沢さんと富井さんです。

「石」を持つ宮沢さん。

上の石は半分に切った作品。この石の半分は信濃川の中条より下流のどこかに埋もれています。

宮沢さんの石を見て、本当に丁寧に大切に保管されていた事が一目瞭然にわかりました。私が保管しているものより美しい感じでした。石に42年ぶりに再会し本当に嬉しく、感謝感激でした。宮沢さんの慧眼に中心から感謝の気持ちをお伝えしたいです。
宮沢さんと色々と話をしているうちに時間は過ぎあっという間に開会式が始まる頃に。その頃に石井孝之さんも到着。石井さんには開会式が終わってから見ていただく事に。石井さんは私の「石を送るメールアート」に興味をもたれ生成の頃の作品を見る機会を望まれたわけです。宮沢さんと石井さんです。宮沢さんが美術手帖の1969年11月号の私の作品図版掲載ページを開いています。


さて、肝心の石子展のことです。開会式の後でゆっくりと見させていただきました。1968年に石子さんが中原佑介さんと共同企画したトリックス&ヴィジョン展の一部が再現されていました。河口龍夫さんの鏡を使った作品は初めて見たように思います。赤瀬川原平さんの千円札の模型作品の実寸大は初めて(Tateにも展示されていたかな?)。静岡の飯田昭二、丹羽勝次、鈴木慶則さんなどの出品作品は以前見た鎌倉画廊での幻触展と同じものもありました。そこに前山忠さんの作品「Mirror in Mirror」と提供したトリックス&ヴィジョン展ポスターが出品されています。
最後はキッチュの部屋は大衆的な俗物が多種沢山で楽しい雰囲気でした。そこの会場風景です。

1970年当時、石子さんの姿をトリミングした写真を送っていました。その写真が資料展示の中にありました。その当時、私は石子さんとお話しして何かを得たという訳ではありませんが数回お会いし、それなりの影響を受けたことは事実です。改めて石子さんの御霊に合掌!です。

羽永光利さんの撮影された石子さんの写真はこの石子展に合わせて急遽小学館から発刊された「マンガキッチュ 石子順造サブカルチャー論集成」のカバーに使用されました。その関係もありご子息の太朗さんも来られました。
前山さんと3人で左手シャッターで記念撮影。いい写真が撮れました。

最後に富井さんと。前山さんに撮影してもらいました。

それから、静岡市の本阿弥 清さんも開会式においでになりお会いすることができました。また、カフェにおられた赤瀬川原平さんから石子展カタログの零円札掲載ページにサインをしてもらいました。ミーハー気分ではありません。赤瀬川さんを尊敬しているからです。これは本当です。