Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

正論転載

私は教師をしていました。教諭時代に何回か生徒を叩いたことがあります。今でもそのことを思い出し、恥ずかしいと心の中で反芻、反省することがあります。その生徒に会ったら謝りたいと思っています。同じ生徒を何度も繰り返して罰として叩いたことはありませんが、叩いたことは感情を抑制できない軽率で短絡的、抑圧的、稚拙な対応でした。
暴力は法律で禁止されている訳ですが、私には法令遵守コンプライアンスの心が身に付いてい無かったと思います。スピード違反でアクセルを踏むのはその人自身です。暴力は相手がありますが、あくまでも暴力する側の判断と行動、心の問題です。40際代に入ってからのことですが、規則を守らない生徒を呼んで叩こうと手を挙げようとしたら「暴力しても良くなんかならない」と言った生徒もいました。その言葉に感心してその生徒を叩かなくて対話できたこともありました。しばらくして「暴力は絶対否定」という形而上学的モデル(例えば「良寛さん」の教え)に出会い、その後の教師人生はその意味でのミス無く児童生徒に対することができました。その教え「常不軽菩薩」のことは今も心の支えにしています。
大阪のこの事件を教訓に教育の現場から暴力が根絶されるよう願うものです。

大阪のバスケ部高校生の自殺関連記事、桑田真澄さんの談話です。
体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ
朝日新聞デジタル 1月11日(金)20時51分配信

体罰について語る桑田真澄さん=11日午後、東京都新宿区、越田省吾撮影
 【岡雄一郎】体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。
 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。

 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。

 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。

 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも、肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。

 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。
 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。

 「練習中に水を飲むとバテる」と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。でも今、適度な水分補給は常識です。スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。

 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。
朝日新聞社