Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

アートの話題(時差ニュース)

知人から教えていただいた写真家の話題です。沢山の皆さんに知っていただきと思い掲載させていただきます。

山川草木に魂入れて 四季の変幻に身を宿す 山本昌男さん(写真家)

2013年3月16日 東京新聞



 ひそやかな親愛の情を持って、自然の断片を白と黒の世界に凝縮させる。静かな美が潜み時間が佇(たたず)む写真作品と出会った。撮影者は山本昌男さん(55)。まったく無名の写真芸術家だった。ただし、日本では。今、欧米の美術界で、山川草木の陰影を深く見いだす美意識が熱い注目を浴びる。世界のヤマモトは日本に住み、目を研ぎ澄ませていた。
 音のない時間がある。黒くて深い暗闇も。山梨県北杜市の八ケ岳の麓。五年前に横浜から移った。手付かずの森が暮らす人をのみ込む。「自然と共に暮らす中に目が深まる自分がいた」。四季の変幻に身を宿すと、気付かなかったことばかり。写し取った世界が投影されたモノクロームのゆらぎは尊い時間の堆積を生む。デジタル写真全盛の時代に、手間が要るゼラチンシルバープリントにこだわる。「黒の深度が違う。引き算の写真でしょうか」
 日本では知られていない写真芸術家の作品が紹介されている国は今やアメリカはじめスペイン、ドイツなど各国のギャラリー、美術館に及ぶ。その源流には、写真芸術に冷たい日本という国への絶望があった。
 生きていくため、二十代のとき「フリーカメラマン宣言」をした。絵を学んだが「絵では自分が行き詰まる」と思った。なじんでいたカメラを手にすると周囲が仕事をくれ、食いつないできた。「いつかアートの世界へ」と漠然と思っていたが、仕事は広告写真。だが、食べるための広告と生きる望みの芸術との曖昧な境界線上にいた存在は、常に落ち着かなかった。
 そんなときアメリカ風景写真の巨匠、アンセル・アダムスらのオリジナルプリントに接した。「絵画に匹敵する画面はすごかった」。現実と心のずれを感じる日々だったが、転機は訪れる。カレンダーを作る仕事で古色を帯びた写真が必要になった。今撮影した写真を何十年も前に撮ったように古めかしくする技法を工夫した。その技法で制作した作品にアメリカの美術ディーラーが目を留め、一九九四年にサンフランシスコで初個展が開かれた。
 日本では、誰も価値を見いだしてくれなかったときだ。やがてニューヨークと、アメリカでヤマモトの名前が知れ渡っていく。ある個展はニューヨーク・タイムズの美術欄で大きく取り上げられ、まなざしの美が高く評価された。美術誌や写真誌にも掲載され、注目度は高まる。ところが日本の写真誌や美術誌からの取材は今もほとんどない。「これが現実。日本では生きられないと思った。世界でも良質のカメラを製造している国で、絵のように価値を見いだし、写真を買う習慣は限りなくゼロ。これでは絶望する」と。
 そんな思いを抱き続けていたころ、アメリカのギャラリーが毎年開かれる写真アートフェア「パリ・フォト」で、知らない間に自作を紹介していた。ヨーロッパの学芸員やギャラリーが着目。確実に評価が広がる。十年も前のことだ。活躍の場は海外だが、撮影対象はあくまでも日本の風景だ。愛知県蒲郡市の三ケ根山周辺で生まれ育ち、海を望む豊かな自然の記憶が離れない。自然と共存する精神性も。「欧米人は、ぼくの写真に日本の美意識を感じるのかもしれません」。自然と向き合う作法は、純真に目を鍛えることにある。
 「良寛に『裏を見せ表を見せて散るもみじ』という句がある。少ない文字の中にある思想。俳句の味に憧れている部分もあるんです」。『山頭火を歩く』という本の仕事で孤高の俳人が歩いた同じ場所で撮影した経験がある。「事実を言葉にしていた。写真と似ている」。その鋭い表現への関心は自作に通じる。
 「最初は人のやらないことをやろうという邪念があったんです」。今は時空を行ったり来たり。大小も分からない。そんな沈静した表現が理想だ。最初の写真集『空の箱』、陶芸家内田鋼一が装丁した『川』にも、そんな思いが収まる。最近、枯れ木の根に目が行く。「大樹を支えてきた根。重力から解放し、放っておけば土に還(かえ)る根に魂を入れてやりたい」と写し取る。
 三月にはドイツのイスニー市立美術館が個展を開く。「縁もゆかりもない日本人写真家。日本ではあり得ない。続けてこられたのは、欧米の市場が支え、鍛えてくれたから」。評価が着実に根を張った証しだ。「ぼくは写真を撮ることしかできない。何に目を向けるか向けないか。表現しないと立っていられない」。表現者という病理も自覚し撮り続ける。 (黒谷正人)