用語の問題-1
今日の新潟日報の展覧会評のアートピックス欄に書かれた「あーとぴっくす」のコメントに疑義があり、ことの次いでにその展覧会を見に行ってきた。前山忠さんに届け物があり、その次いでに前山車に乗せていただいて柏崎まで行ってきた訳である。
その柴野毅実さんの記事を掲載させていただく。新潟日報2010.3.24(18面)である。
私が疑義を感じたのは「植物インスタレーション」と「現代アート系のインスタレーションではありえない世界」の二つである。これが草月流で認められている言葉の用法なのでしょうか。前者が生け花の用語として何時頃から使われるようになったのかということ。そのことと関連して後者に強い疑義があります。
会場写真です。作品の感想と疑義について明日追加して書くことにします。
写っている人物は前山さん。
これは前山さんの自宅前の橋に添えられている赤い彫刻のように見えた雨水管?アートに見えてきたので一枚撮影。これまで数えきれない程の回数前山さんの自宅を訪れているが初めて気付いた次第です。
追記(3月25日)
私は生け花の中の流派別の差異について十分な認識は持っていない。ある流派の家元に質問したことがあるが「分からない」という応えだった。一般知識として草月流には素材の自由さがあること。
生け花は一時的な展示が命である。恒久的な生け花は見たことがない。一方、インスタレーションは1970年代に入ってから一般化してきたその場所と結びつく一時的なアート作品を括る概念である。従って生け花という概念とインスタレーションを結びつけることは順接する。
あえて「植物インスタレーション」とするのは「植物」で植物を構成する実体全てを素材として使用可能とするわけである。これは生け花の世界ならではの概念か。「植物インスタレーション」は後半に使われてる「現代アート系のインスタレーション」とは違うのか。
そして「植物インスタレーション」では「現代アート系のインスタレーションではありえない世界」が広がるのか。
「現代アート」ということから考えると素材で「植物」が使用される例は珍しいことではない。
わざわざ追記までしなくてもよかったのだが、この度の「たかはし藤水さんの展示」を見た感想として、柴野さんの見解と正反対に「現代アート系のインスタレーションではありえない世界」はそこに広がってはいなかった。「現代アート系のインスタレーションではありえない世界」はあった。指摘すると、たかはしさんの展示は矩形の展示空間の周囲に額縁のごときマットを敷き矩形を際立たせ、この矩形の中に藤や葛の幹や枝を二つに割った物を敷き詰めて一つの像を生成していること。周囲にマット敷いたことで空間の広がりと素材の言葉が削がれ矮小化されている。「現代アート系」では素材の言葉を開放系へと誘い、内と外や地と図関係への考察からこのようなフレーミングが用いられることは少ない。
結論として柴野さんのコメントはもっぱらフレームの中の世界を見てフレームの外を見ていない。たかはしさんもフレームの外のことについて考えておられないと思われる。