Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

抽象画の開始以降

以前にも書いたが1964年に「ミロのビーナス」を見に行った時のが東京へ行った最初。その時に第6回現代日本美術展を見ている。5〜6mサイズの大きなキャンバス絵画はその際に見たのが初めてだったように思う。横山操の「高速4号線」、林武の「富士」、前田常作の「日の丸」、コンクール部門では森本紀久子の作品が記憶にある。図録があるので確かめているが図版にないもので作品のイメージを思い出せるのは富岡惣一郎くらいである。その他にオリンピックが終了後の国立競技場へ行って数点の野外彫刻を見た記憶がある。しかし、それは翌年だったかもしれない。その頃、東京まで出向くのは本当に大変なことで、年に何回も行けるような境遇ではなかった。
1965年の大学2年の4月から抽象画を描き始めて県展に入選はしたのであるが、抽象表現について確かな学習や論理的な根拠を形成していた訳ではない。それまでに絵と言えば印象派くらいしか知らず、対象を描くことの意味はまだ分からなかった。抽象画を見たことはあったがその表現の意味等は頭には全く入ってこなかった。
自分のだめさを深く自覚したのは8月の糸魚川市展(出品点数の制限と落選なしの展覧会で賞はある)に出品した時である。その時の審査員は駆け出しの大岡信氏。その展覧会でアンフォルメル風の一連の作品(5点以上出品)の追究の質の深さを評価され前山忠が最高の市長賞を受賞。前山はこのことから飛躍して行く。
その賞の審査は公開であって、それぞれの作品についてコメントをいただくことができた。私の作品には「簡単過ぎるイメージである」であった。その後、自分のイメージ探しが始まったように思う。

9月以降、雪の塊が融ける形状からイメージを引き出す試みをして二紀展(主任教授の鳥取敏先生がその会員)に出品するが敢えなく落選。この後に日本vsアメリカの第2回長岡現代美術賞展(12.1〜1.28)を誰かに連れられて見に行った。ケンダル・ショウのシルエット絵画、高松次郎の「影シリーズ、三木富雄の「耳シリーズ」などが記憶にまだ新しい。1966年に入ってから追究の一端(50号)を学生油絵コンクールに出品し入選。この絵も簡単な風景的なイメージだった。この時に東京まで展覧会を見に行っているのだがその他にどのような展覧会を見たかなど記憶にはない。

まだ自分らしいイメージがつかめないことに悶々としていると4月のある日の夢に一つのイメージがひらめく。そのひらめきを元に「悲しき群集」シリーズをものにして県展と高田市展で入賞し二紀展にも初入選するが、同じ傾向の絵を書き続けることに飽き足らず次の展開を模索する日々となる。そして、その年に東京のルナミ画廊での最初の個展を果たした前山忠のポップアートなどへの飛躍が始まり、色々と影響を受けて行くのである。
(補足)この11月に前山さんが東京の個展で知り合った縁で新進気鋭の美術評論家赤塚行雄氏を招聘して「5人展」を大島画廊で開催する。赤塚氏に岡本信次郎の影響を指摘され、現代美術はこのような表現(人まねを感じさせる表現)ではだめであると発破をかけられたことを覚えている。この展覧会を組織した頃から前山の現代美術運動を起こそうとするリーダーぶりが発揮されていくのである。

ぶれた写真であるが5人展の時のスナップ。左側はフリーハンド的描法で右側に10号程度の新作が3点。この作品では画面を色面で処理した。左の作品は否定され右の作品に岡本さんの影響があると指摘された。が、むしろ重田良一、臼田宏、松本英一郎などの図版からヒントを得たと記憶している。この年に美術手帖の購読を開始。また現代美術と言う雑誌があり、この雑誌はとても刺激的であった。今でも刺激的である。

この年の現代アメリカ絵画展(国立近代美術館10.15〜11.27)、第3回長岡現代美術賞展(11.28〜1967.1.30)を積極的な意味で見に出かけている。