Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

アートの話題(時差ニュース)

今、「滝口修造のオブジェの店」について関心を持ち調べている。滝口修造さんと対面してお話したことはありません。一度、毎日現代展を見に行って旧東京都美術館の食堂で姿を見た記憶があるだけです。
その後、数年の間、メールアートを何回か送りつけた対象でした。その一つの「石を送るメールアート(1969年11月)」は富山県立近代美術館に収蔵されている滝口修造のオブジェ群の中に入っています。滝口さんが作品として認めてくれた訳ですので、幸運なことです。
それから、私の手元に滝口修造さんのRrose Sélavyのサインがある。これは、1970年8月に京都で開催されたニルヴァーナ展に出品した私のメール(はがき)・インストラクション、往復はがきで切り取って復面を投函せよと指示するを作品に応えていただいたものである。緑のインクのサインで本当に美しいものです。

ネットで見つけた時差記事です。
アート巡り:千葉で瀧口修造先生の巻=青山郁子記者 /富山
毎日新聞 2月4日(土)15時34分配信

 ◇デュシャンとの素敵な交流
 あまりにも雪や雨や曇りの日が続いたので、青空が見たくなった。ちょうど千葉市美術館で「瀧口修造マルセル・デュシャン」展(会期終了)が開催されていたので、出掛けてみた。今回も、電車、新幹線、JR総武線を乗り継ぐ片道計5時間近い長旅だったが、愛する瀧口先生のためだ。仕方がない。
 瀧口修造(1903〜79)についてはこのコーナーで何回も何回もくどいほど書き続けているが、念のため紹介しておくと、現在の富山市大塚出身の詩人で美術評論家デュシャン(1887〜1968)は、男性用便器を「泉」というタイトルでアートとして発表したことで有名なアーティスト。
 瀧口は38年、美術専門誌「みづゑ」に「マルセル・デュシャン」を、55年には「藝術新潮」に「異色作家列伝12:デュシャン」を発表し、日本にデュシャンを本格的に紹介した。それだけにとどまらず、スペインにあるダリの自宅で偶然に本人に出会い、それ以後ずっと手紙のやりとりを続けた仲良しの2人だった。現在地元にある瀧口のお墓に刻まれている「ローズ・セラヴィ」はデュシャンの異名で、64年(ちなみにこれは私の生まれた年でもある!)にオブジェの店を開くという構想を抱きその旨をデュシャンに伝えた時、デュシャンから贈られた看板にサインしてあった文字だ。なんて素敵な2人。
 会場には300点以上の作品や資料で2人の交流を紹介。ジャスパー・ジョーンズマン・レイ荒川修作ら瀧口と交友のあった14人の作家の作品もあるというぜいたくな内容だった。展示品のうち59点は瀧口が創設にかかわった富山県立近代美術館富山市)の所蔵品。前述の看板やデュシャンの「トランクの中の箱」など展示品の中でも“いいもの”が多くて、なぜか誇らしくなった。
 訪れた日は、瀧口のコレクター、土渕信彦さんの所蔵品を展示する関連企画「瀧口修造の光跡3『百の眼の物語』」も開催されていたり、巌谷國士明治学院大名誉教授の記念講演会もあって、大勢の観客で大にぎわい。あこがれの君が、三十三回忌も過ぎたというのに依然として人気が高いという事実に、本当に大満足だった。
 さらに私を感動させたのは、図録に掲載されていた富山県立近代美術館の杉野秀樹・学芸課長の文「瀧口夫妻の眠る墓建立にまつわる話」。いろいろあって故郷と疎遠となっていた瀧口の墓がどうして富山に建つことになったのかが詳細に記されていて、そこには夫婦愛、瀧口の豊かな人脈などが隠されたことを知り、さらに瀧口への敬愛が深まったのだった。地元にいなければ書けない文章で、何度も読み返した。
 富山の冬にも、月に数日は、きれいに晴れて立山連峰が神々しいほどに美しく輝いて見られる日がある。瀧口もふるさと大塚から、この光景を見ただろう。きっとそれが、若き瀧口の感性を研ぎ澄ましたと信じたい。そんな思いが募る展覧会だった。

2月4日朝刊