太平洋戦争開戦72周年(コピペ)
<太平洋戦争開戦72年>翻弄された日系3世
毎日新聞 12月8日(日)16時46分配信
「父はスパイのような扱いを受け、とてもつらい思いをしたと思う」と戦争当時を振り返る鶴田マリさん=広島市東区で、山崎一輝撮影
◇米で強制収容所 日本では石投げられ
1941年12月8日、日本軍は米国ハワイ・真珠湾に先制攻撃し、太平洋戦争が始まった。日系3世として米国で暮らしていた鶴田マリさん(83)=広島市東区=の人生は、日系人強制収容所に収容されたり、家族の間で溝が生じたりするなど大きく翻弄(ほんろう)された。特定秘密保護法成立直後に迎える日米開戦72年に「上に立つ人たちが始める戦争で、苦労するのは私たち市民。戦争の歴史を伝えていかなければ」との思いを強くしている。【加藤小夜】
鶴田さんの祖父は、移民として広島からハワイに渡った。1920年代にカリフォルニア州へ移り、ブドウ農園を開いた。そこで生まれた鶴田さんは米国人として育った。38年に帰国を望む祖父と共に姉2人が日本に行き、最年長として家事や妹や弟の世話をし、学校が休みの日にはブドウ農園を手伝った。
72年前。学校の授業中に父が迎えに来た。車の中で真珠湾攻撃を知らされた。家で世界地図を見て驚いた。「こんなに小さな国がアメリカと戦争をするなんて……」。遠出も許可制になり、しばらくすると強制収容所に入るよう命じられた。二つ目の収容所では、米国への忠誠を尋ねる二つの質問に両親は「ノー」と答えた。「姉たちが日本にいたから、両親が何日もどうすべきか相談していたのを覚えている」。「ノー・ノー組」と呼ばれ、銃を構えた兵士に見張られた隔離収容所に送られた。
日本の敗戦後、父は市民権を剥奪され強制送還され、残りの家族全員も帰国した。再会を喜んでくれると思っていた2人の姉は被爆し、米国時代とは人が変わっていた。一つ屋根の下で暮らしたが、冷たくされ、食事も別々。両親がどれほど姉たちを思っていたかを伝えたかったが、言えなかった。
見た目は日本人だが、服装などから姉妹は「ヤンキー、(米国に)帰れや」と石を投げられたこともあった。姉たちは、米国に戻って行った。「すぐにでも帰りたかった」という鶴田さんだが、両親を支えるため日本に残り必死に働いた。
日本で暮らして間もなく70年。当初は日本語が分からず苦労したが、子どもにも恵まれ、幼児園では園長を務めた。「実りのある人生だった」と話す。10年ほど前には日本国籍を取得した。
ただ、最近の風潮は気がかりだという。「戦争ほどおそろしいものはないから」。自らの歩みを振り返り、そう静かに語った。