197年のオイルショック。その後の文化の閉塞状況の中で色々なうごきがあった。この年の9月に「発癌性イベント」展を行った後、何か、動き出そうと、力もないのにリーダー的役割を演じるようになっていった。 羽永さんからフイルムアート社によるシンポジウム…
1975年に入った。1月6日にGUNの会議で長岡にでかけた。その日、私の母親が心臓疾患で急逝。精神的なダメージ,親孝行できなかったことで自責の念にかられる。多忙な教師の仕事と表現活動の両立に向けて混迷の日々がしばらく続く。 この時期は私を含めGUNのメ…
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