1975年に入った。1月6日にGUNの会議で長岡にでかけた。その日、私の母親が心臓疾患で急逝。精神的なダメージ,親孝行できなかったことで自責の念にかられる。多忙な教師の仕事と表現活動の両立に向けて混迷の日々がしばらく続く。
この時期は私を含めGUNのメンバーで冴えた活動をしている者はいなかった。冴えた提案もなかった。学習不足であった。アートのメタのところが分からなかった。それでも前衛の幻に支配されて時間を決めてメンバーで集い、そしてイベントツアーに出かけた。これらの活動は、言わば、前衛に破れた心の敗戦処理であったと思う。今,確信をもって、GUN が前衛であり得たのは「雪のイメージを変えるイベント」を挙行した時だけだったと思う。
1975年6月8日 GUN会議
1975年6月29日 柏崎−松代−松之山イベントツアー
1975年7月19日 GUN会議
1975年8月14日 GUNを柏崎市青海川海岸で描く
青海川海岸近くの防風林にて
松の枝のカーブを意識して
TシャツにGUNを書いて、仲間意識を高めようとした.
米山レストハウスの下の青海川海岸にて
1975年10月10日 群馬・白根山火口でイベント
For Gun Event
我々は、我々を名付けるGUN(ガン)とは何かから常に出発せねばならない。
時として空しい響きを持つことばであるが、ことばの共有こそ創造的集団の礎である。
今年は行為のコードの共有化を目指し、4回のミーティングとイベントを行ってきたが共有のことばを見つけ出すことが十分であったとは言えない。行為することを共同することに留まることなく、感じ、考えてそれぞれの個別性を止揚していくことが肝要である。行為はことばではなく、ことばは行為ではない。ことばと行為の関係を見つめねばならない。
個々のメンバーの持つことば、それは個々の持つ世界観との関係において発展していくものである。ことばを共有することのみを目指すなら、ことばの戦いが生まれ、お互いを疎外し合うことになるおそれもある。
我々は行為の共有とことばの共有を同じと考えているのかもしれない。行為はことばに気付かせ、それを生み出す。そのためにもより鮮明な思考、設定、目標を持ってイベントを実行せねばと考えるのである。
行為を終わって振り返るとき、どのようなことばが蓄積されたか、新たなることばが見いだされたかなどが重要な視点である。(1975年12月)
この後に、ボディプリントで自己確認することになる。そのことについては、以前に記載した。
http://d.hatena.ne.jp/niigata-art226/20090624/1245819101
(7月2日に一部訂正)