Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

雪アートのコンセプト拡充に向けてー2

13日の「雪の図工教室」を前に自分のうちにある美術(図工)教育の実践を振り返っておきたい。教育雑誌「美育文化」や「教育美術」また教科書会社の指導資料等にかなりの実践論文を書いて来た。その中に今で言う「雪アート」の例はなかったが、順接する例があった。美育文化 1995年7月号」に発表の論文である。今読むと書き加えたくなるが、原文のまま掲載する。このことで雪アートのコンセプト拡充に向けての2とさせていただく。
表現「行為」の復権
現代美術における”アース・ワーク”と造形遊びについて
                
1 はじめに
 私にとって、アース・ワークという現代美術の「こと」即ち「ことば」の発生と作家や教師としての出発の時期が一致し、決定的なインパクトを受けた。
 ことば(概念)によって、世界の見え方が変わる。アース・ワークの発生によって「自然と美術」の自明とされた関係性が根源的に問い直されることになった。そして、パラレルな視点により「万里の長城」も「ストーンヘンジ」も「ナスカの地上絵」も「石舞台古墳」もアース・ワークに取り込まれてくる。
 マクロからみればアース・ワークの発生でアートは行き着くところまで極まってしまったが、ミクロの目からは、地表の一区画、一点あらゆる自然材がアートの素材や場所として独自の可能性を持つようになった。
 一方、造形遊びが図工科に登場するのは前改訂で、今次改訂では3、4学年にまで伸ばされた。そこでは、都市化や情報化、管理化が進行した社会背景に鑑み、従来図工科に取り入れてこなかった自然や屋内外での遊びが内容となっている。身の周りの材料に体全体で関わることや子供の主体的活動が中心であり、遊びのエネルギーの復権による教育の質的転換が意図されている。つまり、造形遊びが登場する背景には、アース・ワークまで拡張した現代美術が切り開いた「自然と美術」の関係を問い直す地平がある。
 自分史の中の、アース・ワーク体験を語ることを通し、造形遊びの展開と追求の可能性を探ってみたい。
2 私とアース・ワーク
 「美術手帳」やアートマガジン「現代美術」をむさぼり、 読売アンデパンダンや具体グループ、ネオダダ、ハンレッドセンターなどの前衛や反芸術の作品・行為にあこがれ、'67年に「グループGUN」の結成に加わって現代美術の道を歩き始めた。
 その頃のキーワードは画廊や美術館を否定するハプニング、イベント、オフミュージアム、アンダーグラウンド・アートや新素材・技術主義のエンバイラメントアート、テクノロジーアート、発注芸術などであった。
 当時は毎月ごとに新しい米欧の美術の動向が紹介されていた。アートの頭にことばが付いて、ボティーアート、エアーアートやライトアート、メールアートなどである。それは東京オリンピックから大阪万博への時代の発展・進歩神話と軌を一にしていた。
 受け売りから入った私だが、故石子順造氏から「自然と美術」という根源的な問いに関わる論点を聞かされるなどして徐々に先鋭的になっていった。その論点とは、ギャラリー新宿で、私たちのグループGUN展の直前に行なわれた『AF50年展「泉」(デュシャン)以後50年記念オブジェ展』の出品作の須賀啓氏のつげの植木を電球の形に刈り込んだ作品「植木のオブジェ」をめぐるものであった。当時の若きスター高松次郎氏と中西夏之氏が「伸びてくる枝や葉を刈り込むべきか。伸ばしたままにすべきか。」と争っていたというのである。マイケル・ハイザーがネヴァダ砂漠で溝を掘り始めた頃、アース・ワークということばが一般的にはまだ浸透してなかった'67年12月のことである。
 続く'68の年には国内でも「自然と美術」 に関わって時代を切り開き美術の概念を拡大する衝撃的なニューアートが続々と生まれてきた。代表的なものは大阪の池水慶一氏らのグループPLAYの「VOYAGE Happening in an Egg」、

関根伸夫氏の「位相・大地」、そして、'69年2月高松次郎氏の「石と数字」(Land Art)というネームが一般化するのは'69年の美術手帳7月号の特集『《 新しい自然》アース・ワーク』によってと言ってよい。
 そこでは具体グループの白髪一雄氏の「泥にいどむ」や岐阜アンデパンダンアートフェスティバルでの河口龍夫氏らのグループ位の「穴」などが先駆的な作品として跡付けられクレス・オルデンバーグの「地下の作品」、前述のマイケル・ハイザーの「ネヴァダの凹地」、デニス・オッペンハイム「零下の雪のプロジェクト」などの作品が紹介された。これらの新しい芸術の動向に出会って、私とグループGUNは自らの新潟の地で確かな作品を生み出すことになる。
3 私自身のアース・ワーク
 前述のアース・ワークの特集のインパクトの後10日ほどして、私は尿管結石を患った。それはアポロ11号が月面着陸に向けての宇宙旅行への渦中であった。無事着陸の後、「月の石」を採集し持ち帰るという。体内の石の痛みをこらえながら、月の石のことに思いを馳せていた私の脳裏に、勤務校(十日町市中条中)の裏に流れる信濃川の川原のイメージがよぎり「宇宙飛行士が月の石を拾う時に、この地球の石を拾う。」ことを着想した。
痛みも癒えて、勤務に戻り、その着想に従い自分の作品と美術科の題材を一体的に生みだした。学期末のあわただしさの中で奇妙にして神妙な美術の授業が行なわれた。それは、7月21日の4限、1年C組であった。トランジスターラジオで今まさに月面に着陸しようとする実況中継を聞きながら「地球の石を拾う」感動的な体験学習?が行なわれた。その時、ただ拾うだけでなく、300gの重さとい う条件をつけた。単なる遊びと違った行為であることを意識させるための、「無の限定」というコンセプトに基づいたからである。
 生徒の感想を取る等のアフターケアなど何もしない実践であったが、このいわば月と地球の時空の中で地球の自然石を選ぶだけの授業は、アース・ワークに突き動かされた題材開発のはしりだったと言える。
 私は生徒と一緒に川原で拾った石を直接針金でくくり、荷札を付けての新芸術のメールアート「The Shinano River Plan」として作家や評論家に送った。反響は上々であった。
4 GUNのアース・ワーク
 一方、グループGUNの活動も3年目を迎え、全国的な飛躍が求められていた。そこに新宿でのグループ展で知り合った写真家羽永光利氏が企業の新潟キャンペーンで数回来られ、彼を通して福井の山本圭吾氏による東尋坊の岩場での「火と煙のイベント」シリーズの話を聞いたりして、何かをせねばの思いが募っていった。そして、羽永氏を巻き込むとともにリードされて、信濃川十日町橋下の川原の雪原に巨大な絵を描くイベントの構想がまとまっていった。材料の顔料は羽永氏の交渉により東京・カラープランニングセンターの海上雅臣氏から提供していただいた。かくて撮影者と実行者とに分かれて、'70年2月 新雪の晴れ間をぬってアース・ワーク「雪のイメージを変えるイベント」が展開された。最初から、描く結果についての明確なイメージはなかったが、4人して二基の農薬噴霧器に赤と青、バケツに黄と緑の顔料をつめて、雪原をのたうち回って振り撒くことにより巨大な絵画が雪原のキャンバスに出現した。


雪との格闘とも言える行為の充実感に浸って眺めていたその時、突然雪が降ってきた。巨大な絵画はみるみるうちに白にもどっていく。いわば雪原に描いた瞬間の抽象画。しかし、この記憶は、記録の写真に定着され広まることになる。
そして、このイベントの記憶を引きずって13年後、私は「SNOW PERFORMANCE」を生み出すことになる。

 私ごとのみを語っているわけだが、出来上がってしまっているものを整理する資料漁りのデスクワークとは違う、美術の前線を担う作家や目撃者の論を展開しているのである。 例えば、'70年東京ビエンナーレに参加の おかげで、旧都美術館前のスペースでリチャード・セラの「鉄の輪」の作品のセッティングを目撃、撮影。つるはしを振るう彼の玉の汗がほとばしっていた。

また、クリストの上野公園の梱包計画が都の公園条令に抵触し流産し、彫刻室の梱包に変わったこと。ハンス・ハーケの水を循環あるいは蒸発させる作品やクネリスの実現しなかった「石による閉ざされた展示室」の制作の様子。ルッテンベルクの雑多な材料による彫刻、フラナガンダンボールを使った作品などが記憶に新しい。このようなアースワークに代表される先鋭的で多様なアートの展開が前提となり、図工教育の題材開発として、「造形遊び」に結実する実践が全国各地で試みられてきたわけである。その意味で、図工・美術教育においては、アースワーク(=造形遊び)である。
5 造形遊びの可能性
 「造形遊び」は「造形」と「遊び」を一体化することによって広大な可能性を取り込むことになった。いや、むしろ、造形の原点たる生産や労働や技術、さらに人間の根源的存在に迫る本来の「遊び=行為」に再び光を当てたと言えよう。つまり、造形遊びとは、遊び=体験=行為を通して身体という全感覚を働かせる表現ということになろう。
 具体的には、造形の文脈で遊びを成立させまた、遊びの文脈で造形を成立させること。その過程で、色、形、材料に関わっての「こと」を外在化させ、即ち「ことば」を生成させ、それを自らの内に取り込み、伝えていくことである。
 以上のような考察のもとに6つの窓口でアース・ワーク(=造形遊び)的視点と従来の造形主義的視点とを対比させることにより、造形遊びの展開と追求の可能性を探ってみる。
(1)材料
●汎材料主義
 自然材はもとより、危険なもの以外は何でも材料とする。材料の発見、組み合せ。 
●材料精選主義
 表現意図、目的によって材料や方法などの要素を選択する。
(2)活動場所
●どこでも主義
 教室を出る。廊下、体育館、グランドへ出る。学校を出る。野外へ出る。
●教室主義
 教室のスペースや机上の限界を守る。
(3)題材設定
●;進歩主義
 独自な題材の開発。領域総合的題材。脱領域的題材。領域解体的題材。
保守主義
 教科書題材、モデル題材の追体験
(4)造形思考・行為
●発見主義
遊びや材料との関わりの過程で発想、発見、体感するものを重視にする。
●合目・操作主義
 措定された目的や意図の具体化や技法による操作、技術の応用を重視する。
(5)作品保持や展示方法
●短期展示主義
 展示にこだわらない。あるいは一定期間の仮設展示。写真やビデオで記録する。
●長期展示主義
 作品の保持、永続性を大切にする。
(6)評価
●非造形主義
 意欲や態度の評価。感想などの書かれたものを評価する。あるいは無評価。
●造形主義
 結果としての形、作品を造形美の価値基準で評価する。
5 おわりに
 このように考察してみて、造形遊びの可能性の自在さが改めて確認された。その可能性を具体化するか否かは私たちの創意次第である。私としては、どこでも主義を重視し、脱領域を研究テーマ(註)にしてきている。
 アースワーク(=造形遊び)の文脈での実践例として、上越市城北中のA先生の直江津海岸での「サンド・アート」の試みがあったので紹介する。(図版略)
 ところで、この松代の地にもアース・ワークの一種が毎年執り行われている。3月の上旬となり雪のめどもつくころ、池尻地区の雪の斜面に東頚郡消防署の松代と松之山分遣所の合作でメッセージアートが出現する。雪消え芽吹きとともに消滅する作品である。


 5月の連休も終わり、グランドの雪も完全に消え、ブナの新緑が美しい。この小論を機会に、3年生の第一弾の意欲付けの題材として、農作業用のビニールシートを使った造形遊びのイベント「200mの線」を行なった。

図工科では「造形遊び」を取り入れることで作品至上主義の束縛から自由となり、開発研究が進んでいる。
 美術科の指導内容にはことばとしての「造形遊び」はないが、教科の活性化への方略として、環境への配慮としての「Love Earth」も加え、そのコンセプトを生かした魅力ある題材の開発が急務である。
 (ほりかわみちお ・新潟・東頚城郡松代町立松代中学校)
(註)本誌'87・8月号 28P〜31P
(この「ガンバレ神戸」の斜面の下に2003年に大地の芸術祭の作品として巨大な松之山温泉の看板:サインが設置された。その後からこの雪アートはつくられなくなった。)