「雪のイメージを変えるイベント」-2(羽永光利さんのこと)
東京画廊さんとの共同で1970年2月11日と15日に行われた新潟現代美術家集団GUNによる「雪のイメージを変えるイベント」の記録を高級顔料印刷で出版する企画が進んで、最終段階を迎えています。昨日、前山忠さんとサインを入れる作業を行いました。次は、市橋哲夫さんにサインを入れてもらいます。この企画に関して、撮影者のお二人が亡くなられておられるので、被撮影者=発行者がサインするという形式とさせていただきました。作品は12枚シートのセット。しかし、それを入れるケース(帙)がまだ出来上がっていません。
今日は、このイベントの立役者の羽永光利さんのことについて謹んで紹介させていただきます。羽永さんの活動略歴です。羽永さんは、美術手帖やフオーカスで活躍されたカメラマン。作品集として1983年8月初版「舞踏」があります。
羽永光利(はながみつとし)
1933 東京・大塚に生まれる。
1958 文化学園美術科卒業
社会派及び前衛的表現•行為を総合写真グラフ誌と芸術・美術誌で発表しつづけて現代に至る。60年代からアトリエ訪問。
小劇場運動、イベント、公害、学生運動等を全国に取材する。
64年ライフとライフ・インターナショナルに掲載される。
一方、暗室内での版画制作に新境地を開拓、61年より個展6回、写真展7回。82年フランス・アヴィニヨンフェスティバル写真展に招待展示。83年までフランス国内15都市を巡回。
83年11月パリ・ポンピゥ−センターにて写真、スライド展。
84年(2月14日〜28日)ユネスコパリ本部で個展。
ベネッイア•ビエンナーレ ビデオ部門へ招待出品。
85年 ベルリン・ホリゾントフェスティバル招待展。
99年12月逝去
次に、「あいだ158号」の一部をそのまま掲載し、関連する資料を付けたし・補強させていただきます。
■雪上の色彩ページェント
ところで、<GUN>といってすぐ思い浮かぶのが、1970年2月の「雪のイメージを変えるイベント」。天然素材は周囲にたっぷりあるし、何よりも絵になる(笑い)。具体的にどういう発想と経緯で?
前山 70年以前から、雪国とっては有難迷惑なこの雪をなんとか表現に生かせないか、との思いはありました。しかし、具体的には羽永光利氏との話で実現にいたりました。
----脚が少し不自由なのをものともせずに、当時のアングラや前衛的な活動を、じつに精力的に撮っていた写真家。もう亡くなられて久しいのですが。
前山 雪の,白というイメージを変えるには色をつけるしかない、とはわかっていても、どうやったらそれが可能になるのか、話は簡単ではありません。最初のアイディアでは、ヘリコターを使って顔料を空から撒こう、住民が朝目を覚めたら外の風景が一面黄色、なんてことになったらびっくりするぞ、というような空想的なものでした。しかし、ヘリコプターを借りるには、当時の金で500万円はかかるだろうということで、もちろんその話はチョン。その後、話が具体化するにしたがって、農薬を撒く噴霧器でやろうということになったわけです。噴霧機は市橋哲夫と堀川が調達し、顔料は羽永氏の手づるで手に入れました。
私たち<GUN>としては、雪を活かした大雪上絵を描けるチャンスであり、羽永氏にとってはそれを写真にして雑誌社に売り込むチャンスでもあったのです。両者による共同イベントであったといってもいいでしょう。大自然、しかも雪という気まぐれな気象条件を相手にするわけですから、困難さも面白さもやりがいも、すべてがそこに詰まった感じのものでしたね。
堀川 最初のギャラリー新宿展のときに知り合った羽永氏が69年12月に企業キャンペーンの仕事で十日町に来られ、私の下宿に羽永氏が立ち寄ったんです。そこで<GUN>の活動展開のことを話しているうちに、雪原に絵を描くハプニングの具体案が示されました。そのとき、羽永氏が説明のために描いたイメージ・スケッチとメモが私の手元に残っています。
(意図
1 雪をタブローにして、ぼうだいな色彩の世界を展開して、雪国に住む人々の雪に対する宿命的 な生活観念をくつがえす。大カラーデモンストレーションを私たち新潟在住の美術グループで実現してみたい。
2 雪に埋もれた谷間の村全体を覆う程の色彩で雪景色を現出させる。
3 これらの行為は単に前衛芸術の意味だけではない。例えば、農家が残雪を早く消すために古来より灰をまいて雪を消し、耕作に入れるように努力したごとく熱吸収の強い色彩を発見し、将来「灰」「土」にかわる色彩散布を奨励することの企業開発にも結びつく研究にも寄与する.
4 雪の彩色が実現した時に取材、撮影してジャーナリスティックに持っていけば貴社の対外的なパブリッシティになるばかりでなく、広告(カレンダー、ポスター、カタログ製作)等にも多いに役立つことであります。)
ちなみに羽永氏は、その前に新潟で阿賀野川水銀中毒の取材をしており、その取材の成果は『婦人公論』70年11月号に記事となりましたが、その際、氏の案内役をつとめたのが、<GUN>メンバーで新潟市在住の市橋哲夫で、そのときも、雪を使ったイベントをどう実現していくかが話題になったということです。
<GUN>は68年の後半以降、それぞれが<GUN>を名乗って活動していましたが、グループとして新展開するために募った活動プランのなかに雪を使うものもありました。しかし、前山が言ったように、実現のメドが立たずまさに画餅のままであったところへ、羽永氏の協力的な話を聞いて、急遽、長岡にメンバーが結集、羽永氏の顔料調達のノウハウを頼りにイベントを決行す
る話がまとまったのです。
実行部隊は<GUN>で顔料調達と撮影、マスコミ対応は羽永氏ということで、賽は投げられました。そこで、当時すでに自家用車を所有していた市橋が、その下準備に奔走。イベントの場所は、写真の撮影条件を考慮し、信濃川に架かる国道253号線十日町橋の下の河川敷に決定しました。
市橋の友人の十日町市の測量士の八島勉氏も熱心に支援してくれました。羽永氏は、河川敷を使用するために建設省まで許可を取りに行ったり、当時、カラープランニングセンターをやっておられた海上雅臣氏に顔料提供についての交渉に当たったり、大奮闘してもらいました。
私の役割は、顔料散布用の農薬噴霧器を近くの農家より借りること。下宿屋を介してなんとか一台借りることができました。第一回の決行の日は2月11日。参加者は私と市橋、そして市橋の教え子である今井清秀(現在,備前焼の作家)と高橋純一(現在、鍛金作家)の合計四人。巨大なキャンバスに美しい抽象画が描かれました。雲間から日差しも注ぎ、本当に美しい光景でした。
ところで、その前日の打ち合わせで、センセーショナルな場面の撮影が求められたことを受け、私一人で特番の締め込み姿の演技をすることを買って出ました。その赤い顔料にまみれた写真が、私の青春の記念碑の一つ。個人の行為なのか<GUN>のそれなのか、雪のなかをのたうちまわった体験だけが、心の内に残っています。
(写真/撮影:羽永光利 向うの右が磯俊一、左が今井清秀)
その特番の撮影が終わって橋の上から見ていると、共同で描いた巨大な抽象画は、降ってきた雪によってみるみる覆い隠され,見えなくなっていきました。実際に存在していたのはおよそ30分ほどの作品であったのです。
撮影したのは羽永氏と、その後『FOCUS』で大活躍する磯俊一氏の二人。磯氏は撮影直後「乞うご期待」との言葉を残し、タクシーに飛び乗って去っていきました。
二回目の決行の日は2月15日。前山も到着。小野川三雄は見届けと写真記録係。そのほかに見物人が合わせて十人程度いました。顔料散布を希望したメンバー全員の活躍により、巨大な抽象画が再び出現。
前山はそれを描いた後、見学に来ていた当時高校一年生の大久保淳二をオルグし,二人で別の雪原に、独自のプランによる赤と緑のラインを描きました。
この二回実施されたイベントで、直接顔料をまく実行部隊はいわば来た者勝ちで、仕事上の都合や豪雪による交通不便などの事情で参加がかなわなかったメンバーもいたことを付け加えておかなければなりません。
いまとなっては,その日の見物人の名前をすべて特定することはできませんが、顔料を提供してくれた海上氏がおられたことは覚えています。なお、このときの公式な撮影者は羽永氏一人だけ。磯・羽永両氏の撮影した写真は、『アサヒグラフ3月6日号と『芸術生活』4月号に掲載されました。
関連記事「雪のイメージを変えるイベント」-1
http://d.hatena.ne.jp/niigata-art226/20090328/1238188305
私は、1967年の12月に羽永さんにお会いし、その後1975年くらいまでの間、上京の度に泊めていただく等大変お世話になりました。1976年に所帯を持ってからは泊めていただく機会はなくなり、1996年の銀座のギャラリーハウスでの個展に来ていただいた際にお会いしたのが最後となりました。このブログを冥界におられる羽永さんに見ていただきたいと願っています。羽永さんのことは、また機会を捉えて紹介していきます。