Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

「美術という幻想の終焉」展(メモ)

 初めて松澤宥さんにお会いしたのは、長野市信濃美術館での「美術という幻想の終焉」展のシンポジウムに参加した1969年8月10日のこと。勤務地の十日町から飯山線で長野まで出かけたのである。
 この年の1月、デザイン批評で峯村敏明さんがアラン・ジュフロウの「芸術の廃棄」を訳し、それが芸術論争を刺激。5月の第9回毎日現代展では、光や新素材を使ったテクノロジーアートとは異質な関根伸夫の「空相-水-」、高松次郎の「布の弛み」、狗巻賢二の紐を矩形に張った「無題」、李禹煥の大きな紙を3枚床に置いて自然なめくれを見せた「物と言葉」、小池一誠の自然石から直方体を切り出した「石」など非芸術や後に言う「もの派」的動向が顕著に現れていた。(李さんのキャンバスに石を乗せた作品は1971年の現代展でした。20日に訂正。)
 私は、その現代展に「紐で立体をつくる作品」や「錯視を応用した絵画」を応募したが見事に落選。その後、色々と悩みつつ発想する過程で7月21日にアポロ11号の月面探査に因む「石を送るメールアート」を開始。中原佑介さんや松澤さんに送っていた。その直後に、「美術という幻想の終焉」展があった。その時のシンポジウムのパネラーに中原さんや峯村さんがおられた。そのシンポジウムのメモがある。テープを起こしたような正確なものではないが、今につながるキーワードがあり、松澤さんからいただいた青焼きのコピー作品と合わせて掲載する。

美術という幻想の終焉」展シンポジウムのメモ

春原敏之(経過報告)
 既成の枠を超えて、創造することを創造する。
 1日に中原佑介氏に協力依頼。6日、松沢氏の個展の祭にミーテイング。
 次回よりアンデパンダン形式に。芸術の枠を超えた大きな場を創り出す。

松澤 宥
 比丘尼の教え
 感覚→認識→解脱→涅槃 これは美術の道程である。
 地・水・火・風・空への着目がアースワークである。
 認の無限もなく。無想の否定もなく
 この世もなく→拠り所なく、信仰なく、大局ない時
 涅槃は絶対 それを超越しようと望む 芸術も超越しようと望む
 物質的世界の消滅

山崎秀人
 時と時間の間にあるものを問題にしている

峯村敏明 
 芸術の消滅に興味ある
 松澤氏はニルバーナ・アートである。
 今年、芸術に不信の眼、あるいは無化を叫ぶ
 芸術とは何かは→中原氏が
 芸術としての社会的側面の問題からのアプローチ
 術の経済的側面 画廊制度=輸入された制度
 フランスでは ものとしての作品を→買う、売れる
 アラン・ジュフロウは芸術作品の流通制度に反発し、本来の純粋な精神活動を取り戻そうとしている。
 既成の文化そのものへの疑問。枠を廃棄
 芸術は幻想なのか? シンポジウムで討論を

中原佑介 
 美術は消滅しなければならないとは思わない
 つくることの廃棄→つくることに価値はあるのか
 つくることに大きな価値を与えようとするのを止めようということ
 観念としての芸術→アースワーク、エアーアート→コンセプチャルアートが今の流行。
 アースワーク、エアーアートは物質には違いない。
 レッテルを貼ってコンセプチャル・アートを叩こうとしている。
 芸術はものでしかないという見方もある。
 現実離れも思考の一種である
 ムードとして芸術の廃棄が漂っている。が、予感としては不毛の結果
 つくることは廃棄していない→根本的に廃棄になっていることはあり得る。楽観的である。
           
 松澤氏のこと
 →時間空間を超越→絶対的信念である。幻想に対する幻滅はある。
 もはや美術は信ずるに足らない。今は悪い状態。また良くなる。
 ジャフロウについて→絶望でなく、社会体制が悪い。
 引き出しにしまっておいて→紙切れのようなものでも→価値がある。
 
 ・つくらないことでも、ある種の説得があれば、つくる以上に力をもつ
 ・メタアート・芸術の廃棄はおそろしいことであり、それなりの意味がある。
 ・ある日突然、芸術を止めてしまえばよい。→でもできない。
 ・美術という幻想の終焉はラディカルな問いであることは間違いない。
 ・美術は幻想なのか?

山崎秀人 
  今まであった美術 非時間性 無時間性の概念である。
  時間の中に求める。非時間性の空間ではなく、非空間性としての時間でアプローチ
  関根→現象学的に批評されている
 (自己存在の疑問)→(観念の抽象化)→現象学的世界に疑問がある。
  時間の中の人間 その中の思考
  近代以前にある時間の概念 物質的時間と絶対的時間
  ものが持っている全体を離れた時間
  対象化される美ではなく、自己の中にある美
  観念の抽象化 瞬間、瞬間を個々に時として提出

成田? 
  美術が幻想である。これも幻想で→美術は体制の中での幻想である。

山崎秀人  
  場→観念としての場 実体としての場←→観念としての場 を区別
  相対的な時間。つくれない現実。
   
  どのように我々自身があるのか
  池田龍男→何月何日のオリオン座  指定は一回だけで終わり
  時間の中では一回限り 時間に対しての境界 その時その時に還元される。
   
  芸術も美術も一つのプロセスでしかない。
  美術が幻想として存在し得た場合
  ニルバーナ→過程で解き放つことを拒否
  西洋→過程としてとらえる

中原佑介
  議論は終焉に縛られていて、ナンセンスをクローズアップした。
  ボイス→アンチイルージョン

 私は、終わり頃にフロアから「アートは、もう少し相手に衝撃的に訴えることが重要」というような趣旨の発言をした。すると、松澤さんが「ならば、どのような表現があるのか」と問い返してこられた。そこで私は、「石を送ることをしている」と応え、自分をアピールした。