第6回北陸現代作家集団展(1971)にて
1971年の第6回北陸現代作家集団展にNIIGTA GUNとして参加。この頃は、メールアートに熱中し、作品はハガキ、プリントや写真という形が多かった。物質的に大きな作品をつくる表現についての羅針盤を見失っていた。精神的な空洞も抱えていた時期で、斜に構えて電報でメッセージを送る形で参加した。ことばの内容がどのようなものであったかは記録も記憶もない。展示会場を撮影した記憶があるが、廃棄してしまったようで見つけることができない。しかし、中原佑介さんの講演があるというので前山忠、佐藤秀治と3人で福井まで北陸線に乗って出かけて一泊した。その時、山本圭吾さんにお世話のなった。中原さんの講演のメモがある。今日につながるキーワードがあるので掲載する。(文責:堀川)
招待評論家中原佑介講演「現代芸術とは何か」
日時 1971年7月3日 14時40分より
(第6回北陸現代作家集団展6/29〜7/4)
(視点:この展覧会に展示している作品群について話しするのではなしに、)
中原
・現代において芸術家とは何か。
ローゼンバーグ(アクションペインテイングの理論)
観客とは何か。分けが分からなくなった。芸術家というものも分けが分からなくなった。
・マルセルデュシャン→便器の作品化→制作者はムット氏。展示されなかった。そのまま自宅に持ち帰った。理由:不道徳、下品,剽窃である。
・反論・泉が下品であるなら浴槽も下品であるはずである。
・便器を解放したかった。
評価
・ダダ的な仕事−反芸術−画期的作品
・一点主義の芸術的価値に対して別の価値を提出←既製品
・実用品であるものを、実用品である意味をはぎ取って、別の見方を設定
・デュシャンは何をしたか 1917年 便器を買ってMuttとサインし、置き方を指示
・デュシャンは通常の意味において何もつくらなかった
・「いかにものを見るか」を芸術の問題に置き換える
・もし出品されたなら
デュシャンは「何を表現するか」という意味を与えてはいない
便器を見て、通常の意味で鑑賞することが出来ない。意味をくみ取ろうとしても不可能。
受け取りは極めて多様である。
デュシャンは便器を見るチャンスを与えただけである。
・芸術家とはなんぞや→自分で何をやっているのか分かっているわけではない
たまたま、作品というものができる。しかし、作品に意味を付けても作品と意味とは合体しない。(ものと言葉の分離)→意味づけは観客がする。それによって初めて作品が規定される。芸術家は仲介者である。創造主である芸術家というテーゼを否定。どのようなチャンスを与えるかが芸術家の行為である。
・便器はコロンブスの卵である。デュシャンでなくてもよい。個性が入っていない。
このような考え方は一般的ではない。しかし、このような考え方があるのが面白い。
戦後美術の底流にこのような芸術観が流れている。
デ、ビュッフエ(フランス)
芸術家に一人一人個性があることは悲しいことである。
これは人間が描いたということさえあれば良い。誰かが描いて絵であれば良い。
人間の違いを強調するか、同質なものを強調するかである。
選別、選択、合理化が行われる。画家が一人一人区別されるのはおかしい。いやである。
デュシャンの考えとデ、ビュッフエの考え→芸術家と非芸術家との区別がされない。
橋渡し、媒介者、仲介者としての人間を芸術家と呼ぶのであれば、その仲介者を止めれば芸術家でなくなってしまうのか。そこには、歴史が介在する。
デュシャンは、芸術に対して無関心になりたいという関係で芸術と関わっていく。アイロニーというレベルで仲介者のテーゼも導かれる。
芸術と芸術家の関係関心と無関心
そもそも社会において全く無関心であるような芸術であってほしい。否定的な形で芸術と関係する。
デュシャンの芸術家についての考えは重要である。
15:20〜
現代芸術とは何か
三上誠(福井)
京都にいた時に、中秋の名月。竜安寺の石庭が違ったものに見えてくる。昼間には見えなかった素晴らしい情景が出現する。作品は環境によって変わる。
スラビンスキーのこと
現代の音楽が分からないようにスラビンスキーの音楽が分からない。
我々の描いた作品がいかに理解されるか。現在的な問題である。
宮崎?(?)
自分の作品を考えれば考えるほど分からなくなってしまう。
大きさを決定する時迷う。展覧会に大きさの制限があったり、色々な関係で大きさが決定する。飛行機をつくる→規制がある。
重さも問題。視覚・触覚→重さ、温かさ 両方の感覚に自分が落ち込む。
自分の作品として、どのようにつながるかがよく分からない。
現代展は分からない。作家として作品をつくる側からの規制。近代の古さに対する引っかかりを捨てきれない。
質問
現代芸術とは何か?
中原 基準はない。決定する地位も位置もない。権利も義務もない。
観る人→美術への関心がある。受け取る側に関係する。
三上 現代の美術について、印象だけでは語れない。
中原 分かる、分からない→美術に対する関係で分かる、分からないという関係では分からない。
三上 分かる、分からないは生活との結びつき。その中で規定がある。
例えば、左翼、右翼。
中原 個人的に言うと分からない。
三上 批評家の批評を信用しない。
大場 生まれて生活してきた中で、個人個人の基準が出来、分かる、分からないになる。多様性の問題。仲介者の問題。
中原
・「剽窃ではない」について
ビニール袋に水を入れる。これを剽窃とすると、油絵も全て剽窃となる。
・剽窃と剽窃ではないとを現象として見れば似ている。アイデアも同じ。
アイデア→作家のアイデア→作品を通して表れた匿名のアイデア。
表現の独創性はアイデアの独創性と同じではない。オリジナリティ→近代の特性。
・表現であれ、観念であれ、アイデアであれ独創性は信じられない。
・ものの見方、考え方→美術家が哲学に足を踏み入れる。批評家は作家の駒である。
・作家は自分の言葉で現象をとらえ返す。←20世紀は評論家の時代。
・高松次郎さんは作品を提示して、他の人が全く別の視点で作品を見てくれると嬉しいと言っている。