1972年10月頃
昨日(6日)は前山さんと二人で見附市でGUNの作品集を納品し、続いて新潟で売り込みで二カ所廻って一日終わった。往復280kmのドライブで疲れてしまい、ブログを書く気力もなく早めに就寝。しかし、早めに寝ると今時分目が覚めてしまう。
連続的、断続的に同じ時期について連綿と語ってきている。
1971年3月の「言葉とイメージ」展の後、前山さんが5月の毎日現代展で「作品を撤去」をして、その後は佐藤秀治さん、関根哲男さん、北村克躬さんなどとの交流が始まるが、基本的にはGUNの活動を方向付ける羅針盤がなくなってしまっていた。個人として、心のうちの表現への欲求と生業としての教育へのモチベーションの高まりとの間で揺れ動く日々が続く。そして、72年2月の「浅間山荘事件」を経て、作品も変化して行く。
1972年10月頃に書いたGUNを立て直そうとしる堂々巡りのメモである。今読むと、拙い論理の構築に苦笑してしまうが、自分自身の表現論を構築しようとしていた思考の痕跡である。
70年代における人民の本質的運動体構築に向けて
—新潟現代美術家集団GUN残党炉語—
我々新潟現代美術家集団GUNは1967年10月長岡集会成功のためにという前山忠や市橋哲夫らを中心に、13名のメンバーをもって結成された。そして同年12月の長岡における旗揚げ展を出発展として、ギヤラリー新宿に続き、メンバーの変動を経ながら翌
68年4月の大島画廊、8月の長岡文化会館9月の椿近代画廊に至るまで、合計5回の展覧会を組織した。その間、4回の街頭イベント、テレビ出演も行った。月1回の集会を貫徹し、日本各地域の活動体と接触を持ち、各種のジャーナリズムや評論家とも関わりを持ち虚名を売り、美術家の活動体としては一応の成果を収めたと自負する。
しかし、椿近代画廊での結集以降、瓦解し分散の道を歩み始めた。69年は個々がGUNを名乗る形で表現活動を展開し、翌70年2月には「雪のイメージを変えるイベント」で再結集を果たすが、それは花火が上空で爆破し大輪を咲かせて終わるようであった。
そして、今我々は未だにGUNに執着している。この、ささやかな運動体であるGUNの今後の運動をより強固なものとしていくために、本質的運動論を構築したい。
巷に溢れる欺瞞的評論家や現代美術作家に観念芸術家や世界との出会いを忘れた近代主義者などという誤解もはなはだしい軽薄なレッテルを貼られないために、「美術」をめぐる種々の問題と我々自身との関係及び関係構造を、今までの活動の総括を含めて対象化したい。そのような作業により、現状況における我々自身の社会との関わりを明確にすることが必要である。
我々が「美術」という世界に身を投じようと思った時には、「美術」と関わることに何らの疑問もなかった。我々は、立派な作品を、新しい作品を創り出すことに専念していた。「美術」は我々を包摂し、我々の生きるエネルギーは全て作品へと収束していたと思われる。
「美術」という世界は甘美なものとして、我々の内に存在していた。
しかし、作品を創り出すこと、作品という生産をすることはその行為自体に留まっているはずはなく、社会との関わりに発展していく。
観衆や他者に作品を提示することへと発展していく過程で、美術としての制度、制度としての美術、美術と社会ということから種々の問題が生じてきた。
我々がGUNを結成した時点においては作家の組織として社会に関わりを持った「作家」という存在を既成の芸術的イデオロギーから位置付け、そこから演繹して作家のあり方を冷静に律していこうとしたわけではなかった。
我々一人一人が「美術」としての表現の制度、社会との関わりの制度、或いは美術に対する様々な情報の中で自立を図ってきた。
66〜68年、あらゆる面でジャンルの崩壊が叫ばれていた。その状況の中で我々は、新潟地方における中央追従の権威主義、公募展イデオロギーセクト分子の閉鎖主義、そしてそれらをささえる作家の保守主義、疑似アカデミズム、非創造的生き様などへの軽蔑。民衆の前時代的美術意識とそれを利用した作家の思い上がりへの違和感などの心情的側面から、皮相的ながらも文化総体に関わる情勢分析の上に、何かせねばならないという改革のエネルギーに似た活動集団を結成してきた。我々は、自らの内からのエネルギーの発露として、新潟現代美術家集団GUNとして連帯と結束を図ったわけであり、特別な運動論など持ちはしなかった。
確かなことは、我々自身が持っている対中央コンプレックス、対ヨーロッパ幻想、対アメリカ幻想という屈辱や羞恥を前時代的属性として作家的営為において拒否し、超克しようとする意識が先行していた。対中央とか反芸術とかに基底を置かずに、もっとそれを超えた本質的創造活動とは何かに眼を向けていた。そのような突出的意識を共有していた。我々は、美術を通して世界を見つめ、そして自己を鍛え、変革しようとしてきたわけである。
このような我々の立場は、我々をして「美術とは何か」を自己に問いかけることを余儀なくさせた。それとともに我々の営為全てが美術に一元化し、芸術という高みに自分を置いてしまう芸術至上主義的な専門バカ、過去の作家としての幻想に陥ることや経済的実利性のみに問題を置いているメンバーのために、安易な妥協に基づき展覧会を行ったことは疑いのない事実である。
そこで、次の提案をしたい。
新潟現代美術家集団GUN綱領
我々の行為の基底は全て“GUN”にあることをまず表明しておく。
第一に“GUN”とはGroup Ultra Niigataの略であり新潟を発生源とする美術家の運動体である。
第二に、“GUN”とはGUNであり鉄砲である。毛沢東の「鉄砲から権力が生まれる」の通り最も重大で根本的なテーゼである。
第三に“GUN”とは元であり元気な行為の元である。
第四に“GUN”とは岸であり強い意志をもつ岸傑のことである。
第五に“GUN”とは岩であり岩乗、堅固さである。
第六に“GUN”とは雁であり群を成し、渡り鳥として全国各地に出現する。また、雁使を発信して情報のネットを張り巡らす。
第七に“GUN”とは癌であり、容易に駆逐できない性質をもつ。
第八に“GUN”とは願であり悲願であり、願力である。
第九に“GUN”とは頑であり不服従の頑民であり、いかなる弾圧にも屈しない。
第十に“GUN”とは眼であり心の窓、透徹した眼力である。
第十一に“GUN”とは丸であり、人民のための丸薬、弾丸である。
第十二に“GUN”とは顔であり人間の看板である。
第十三に“GUN”とは厳であり、人民共同体の厳邑を築くものである。
我々新潟現代美術家集団GUNは、全ての行為、状況の投企において、列記した13の“GUN”の定義に基づかなければならない。この“GUN”に触発され戦闘的な行為へ突入していくことが肝要である。
我々は“GUN”である。全ての人民よ“GUN”より成すべき事を学べ!全ての人民よ“GUN”の声を聞け!“GUN”は連帯のシンボルである。全ての人民よ“GUN”に結集せよ。
(註:この綱領については、赤瀬側原平さんの朝日ジャーナル連載の桜画報)にヒントを得ていた。)
本日のStamps(写真はYhooより)
私にも、機会があれば一度やってみたいのが、勝利のビールかけやシャンパンファイト。日本のワールドカップ出場を祝う!(註:これはアルコール類ではなく水をかけているのだそうです。)