Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

司修さんの記事

今日、樹下美術館で画家、装丁家、作家でご活躍の司修さんの講演会があり聞きに行きました。初めて司さんのお姿を拝見し話を聞きくことができました。お話のメインは高田出身の画家倉石隆さんのことでしたが、お話の枝葉が含蓄に満ち、司さんの著作を読んでみたくなりました。感想は明日にします。にわか勉強で司さんの事をWebで調べました。

今、平和を語る:画家・装丁家・作家、司修さん
毎日新聞 2011年5月30日 大阪夕刊
 ◇「騙し絵」だった戦争画 先人に学ぶ非核非戦
 画家、装丁家、作家と多彩な分野で活躍する司修さん(74)は、小学3年の夏に終戦を迎えて以来、戦争と人間の問題に向かい合ってきた。画家の立場から「十五年戦争が日本の歴史の恥部であれば、そのための戦争画も恥部です」と語る司さんに聞いた。

 −−まず、子ども時代の体験から。 

 司 子どもの時にはわからなかった、あるいは考えなかったことも、大人になって振り返ると、そうだったのかと思い至ることがあります。

 小学校にあがり、上級生から「将来何になりたいか」と問われたとき、「兵隊さんになって立派に死にます」と答えるまで、何度も何度も殴られました。子どもたちの間でも、兵隊になって死ぬのが一番すばらしいことになっていたのです。死を最大に美化して、子どもたちにうえつけたのが大東亜戦争でした。

 また隣組や子どもたちの組織にしても助け合いではなく、ひとえに密告のためのものでした。弱い者がいじめられ、差別されるのを、木剣をいつも持っていた教師から、僕は教えられた。

 −−終戦を迎えた時はどうでしたか。

 司 僕の住んでいた群馬の前橋市は、終戦直前の8月5日の大空襲で焼け野原になりました。8月15日に焦土に立ったとき、戦争が終わってよかったという理屈的な感情よりも、これで爆弾で死ぬことはない、空襲警報が鳴るたびに逃げなくてもいいんだという、身体的な安堵(あんど)が強かったように思います。子ども心にも生きものとしての感覚が真っ先に出たのです。僕の子ども時代は、それほど生命の危険にさらされていたのだと思います。

 −−さて戦争画ですが、戦時下における「死の美化」は、著名な画家の玉砕の絵などにも見られます。

 司 死することの美しさが強調されたのは、勝利の可能性がなくなった、つまり生の希望のない戦争を続行していくという、日本の国情があったと僕は思います。ですから、勝利を誇張した絵も玉砕の絵も結果として国民を騙(だま)した「騙し絵」だったといえるのではないでしょうか。

 −−画家として、戦争画にこだわるのは。

 司 東京に出て本格的に絵を描き始めた25歳の頃から自由美術家協会という団体に所属して作品を発表していたのですが、この団体は戦争画を描かなかった画家(新人画会)が6人いました。戦争中にグループ展を3回しています。あれほどの言論統制と弾圧下に置かれても、戦争とは無縁の絵を発表していることに、僕は驚き、関心をいだきました。

 −−戦争画を考えるきっかけになったと。

 司 そうです。人間は正しい方向を目指すことができるのではないか、その方法があるのではないか、と思いました。展覧会に出した作品を、軍当局によって3回降ろされた井上長三郎さんに、周囲が戦争画を描いて賛美されているとき、どうしてこうした絵が描けたのですかと質問したら、「意識を前面に出したら即逮捕される時代だったから、意識を持たないことだよ」と諧謔(かいぎゃく)的な言葉が返ってきました。口を閉ざし、絵の中にだけ自分の意識を出したというのです。

 −−洋画家の井上長三郎(1906〜95)について司さんは、「戦争と美術」(岩波新書)でこう書かれました。<撤回された三点の絵は、直接戦争を否定しているものではないのに、そのテーマから戦争を否定している作者の意識が伝わってきます。中国を侵略している最中に中国人の行う葬式とあれば、侵略されている民の悲しみと怒りが感じられます>

 司 僕は井上さんから「自分にうそをつかずに生きたから、自分の好きな絵が描けた」と聞きました。自由美術家協会の画家は、たいがい同じような意見でした。

 −−少し補足説明を。

 司 自由の少ない、あの恐怖の時代に、自分の思うところの絵を描くには、貧乏を覚悟しなければならないということです。井上さんとも親しい大野五郎さんの家によく伺っていたのですが、家が傾いていて、ビニールの風呂敷が画鋲(がびょう)で留めてあり、そこに雨水がたまっていました。アトリエなどない3畳の部屋で絵を描いていました。芸術家に限らず、いろいろな意味で利益を失ってしまう困難な時代にあって、自分の生き方を守り通した鑑(かがみ)なのだ、と僕は感銘しました。

 −−洋画家の大野五郎(1910〜2006)も、戦争画を描いた画家とは対極にあります。

 司 国のために、国が生き延びるために絵筆を握ったという意識を、戦争画を描いた画家は持っていたと思います。しかし自由美術家協会の画家との対比で見ると、そこには自己利益が透けて見えます。自分を見失うと自分を裏切るようになり、そうして自己利益が膨らんでくると、それが正しいと思ってしまう。そして自分が犠牲になったことも、自分を裏切ったことも忘れてしまって、最後は自己弁護にはしりがちです。自己利益に背を向け、最小限の力であっても、大きな流れから外れて自分の作品を仕上げたのが自由美術家協会の画家たちです。どのような時代でも全く駄目だということはない、と僕は教えられました。

 −−ところで司さんは原爆に関する作品も多く、作・絵の「魔法のぶた」(汐文社、原爆児童文学集12巻)の一文は原爆の正体をあばいています。<ピカはのぉ、戦争がのうなって、平和になって、ピカも、戦争も忘れたころになっても、まだ人を苦しめて、殺しつづけよるんじゃけえ>

 司 核実験が繰り返されていた冷戦時代に受けた恐怖感は強いです。今も怖さにおびえています。絵本や装丁の仕事で広島に行き、被爆者の方々の話を聞くうちに、核の問題にしても、戦争の問題にしても、僕のなかでは絶対にあってはならないものになりました。この意識を、井上さんが絵にこめたように、僕も絵にこめて描き続けたいと思います。

 −−戦争と人間の問題は終わることのないテーマだと語っています。戦争を繰り返す人間については。

 司 オーストリアの動物行動学者コンラート・ローレンツは、人間も種の保存という本能に根ざした攻撃性を持っていると言っています。本能である攻撃行動を完全に断ち切ることができないならば、いかに制御するか、よりよい方向にもっていくかです。攻撃を回避する方向にもっていく力が、人類にはあると信じたい。(専門編集委員)=次回は6月27日掲載予定

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 ■人物略歴

 ◇つかさ・おさむ
 1936年、群馬県生まれ。独学で絵を学び、76年「金子光晴全集」の装丁で講談社出版文化賞ブックデザイン賞、78年「はなのゆびわ」で小学館絵画賞を受賞。小説では93年「犬」で川端康成文学賞、07年「ブロンズの地中海」で毎日芸術賞を受賞。05年から法政大名誉教授。著書多数。近著に「戦争と美術と人間」(白水社)。