Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

1970年12月以降-5

当時、何名かに送っていた「絵はがきシリーズ」を道標に、過去を徘徊して語っている。

1971年8月13日に十日町市中条の最初の石を拾った河原へ行った。当時、堤防からすぐに河原に下りることが出来た。


なぜ中条に行ったのか。河原に行くことの他にも目的があったはずだが詳しく思い出せない。自分の原点みたいなものを確かめに行ったと思う。最初の3学年担任をしたクラスの親御さんが亡くなられて弔問に行った時かもしれない。その担任したクラスの生徒とも会っている。

下宿でお世話になった樋口板金さん宅にも立ち寄った。トラックに乗っておられるのがご主人の樋口雄司さん。お世話になった方である。

この時、河原へは当時高校3年の大久保淳二さん、樋熊将大さんと一緒に行った。。セルフタイマーに合わせて石を空中に投げ上げた瞬間を撮った。
この時、「零円切手」第一号(佐藤栄作)を作っていたので、石について新展開するためではなく、石と別れるためにどうすべきか考えるために行ったのだと思う。この時期、石を送るメールアートはは勤務校近くのの中ノ俣川で採取して「The Nakanomata River Plan」としてかなりの数を送っている。

この写真は1969年の7月21日である。最初の石拾いの時である。昼間は授業で、夕方に高校一年生とも拾った。石を拾いに行って、当時のトレンドであるコカコーラを飲んでいる。

石を採取し、吟味している場面。計りで計量している。それほど大きくない石である。

信濃川の河原は自然を感じさせ、思考と表現を育んでくれた場所、仲間=教え子との遊びや対話の場所、心を開放してくれる場所だった。その後、堤防の改修があり河原や水の流れの様子も変わってしまった。次に、信濃川へ石を拾いに来るのは1985年である。兵庫県立美術館の「環境としてのイメージ」展に出品するために、であった。なお、一昨日に石を採取したのは中条より3kmくらい上流であり、石の大きさ、河原の表情に少し違いがある。