Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

1970年12月以降-7

東京で展覧会に出品したり、新潟で山下洋輔を見たり、しかしそれは非日常。帰ってくる場所は勤務地の山間僻地である中ノ俣。10月の終わりに鱗雲が美しく見えて撮影。この頃に、新潟の小西反軍の集会で内ゲバがあり、沢山の友人が襲撃を受け持ち物を奪われ、また大きな怪我をして入院。私は、その日都合が悪く欠席していて難を免れる。明白な犯罪を訴えることも出来ない内ゲバと言う密室的行為。新左翼活動への共感が疑問に変わってくる。

この頃、勤務校の生徒達は山芋を掘って生徒会活動の資金を捻出。改めて、生徒達と真剣に向き合わねばと思うようになる。生徒達に沢山の愛を注いでしてやらねばと思うようになる。


職員研修の一環として授業研究をする。他の教師に遅れをとりたくないという優等生意識の芽生え。まじめに授業案を書いた。風景画の授業であった。

1972年1月21日のこと。学校近くで行われていたお年寄りの葬式を撮影。自分の土地で火葬に付されるという人生最後のドラマ。この頃、海が恋しくなり、何度か海を撮影。


1月24日にグアム島横井庄一さんが保護。2月に入って、札幌オリンピック開幕。70m級ジャンプのメダル独占。しかし、2月19日に連合赤軍による浅間山荘事件勃発。2月28日に警察隊による突入。鉄球で破壊され、放水されるる山荘。その一部始終がテレビ中継。そして、凄惨なリンチ殺人事件が徐々に明らかになってくる。新左翼運動への幻想が醒める。激動する時代。