Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

良寛さんのこと

先日の話題に出てきた長岡市与板歴史民俗資料館で良寛さんの掛け軸が一点展示されていました。久しぶりに見る良寛さんでした。しかし、良寛さんの書の99%は私の力で読むことはできません。私の力で読むことの出来る作品は「一二三」「いろは」「天上大風」その他2文字〜4文字くらいの数点です。しかし、良寛さんの書は読めなくても、線が優しく、おおらかに躍動し、呼吸し、本当に美しく、至上のドローイングとして心地よいです。


これは、良く知れれている手毬の歌の一つです。同じ歌を書いた軸は他にもあります。

袖裏毬子直千金 謂言
好手無等匹 箇裡
言趣若相問
一二三四五六七

1975年頃から、良寛さんを少し読むようになり、90年代後半に、「私の良寛さん」という小さな文章を描きました。読んでいただければ幸甚です。

「わたしの良寛さん」         
 '67年に新潟現代美術家集団GUNに参加して、生活の地で現代美術を志し、また公立中学校の美術教育にたずさわって30年が過ぎた。現代美術の表現活動と美術教育の二元的構造のこの間の漂泊の過程で様々な出会いと先人のことばに支えられた。GUNの初心のことばに「地方の時代・地方の前衛」があった。そして、今、大いなる支えとなっているのは良寛さんのことばである。
 '70年GUNは信濃川の河原での「雪のイメージを変えるイベント」で喝采を浴び、またわたしはその5月の東京ビエンナーレ「人間と物質」展に参加する幸運に恵まれ、一つの表舞台に立った。しかし、その喧騒が過ぎて、わたしはその舞台から転げ落ちてしまっていた。自分の「石のメールアート」の表現のオリジナリティを次に展開できなくなっていた。送った石でいつか山ができると確信していたわたしが、その石の小さな山から転げ落ちてしまっていた。続く、ピナール画廊での「ことばとイメージ」展でメールアートの発展として佐藤栄作総理の「零円切手」をつくったが、コンセプトが先走りし表現の喜び、実感が伴わなくなってしまっていた。続いて、連合赤軍事件や第一次オイルショツクなどで時代は冷えていった。当時の大きな心の拠り所であった長岡現代美術館も活力を失い、同時的にGUNの活動も当初の目的を達成し、前衛的運動としては終焉を迎えてた。
 そして、わたしが立っていたのは、自ら選んだ生活の地で表現の先が見えなくなった自分であり、また高度へき地の公立中学校・中ノ俣中学校の美術教師としての地平であった。そこは50名程の生徒をいただく教育の生産点でロマンを求める若い教師の活力あった。そこには教育の生産点より世界を照射する確かな実践があった。わたしは美術教育に真剣に立ち向かい、精神と実践の活路を求めていった。教材開発がキーワードとなった。地域性のある教材の開発に取り組んだ。そして、その地に伝わる「牛木吉十郎の猫又退治伝説」をテーマにした紙芝居や版画化に取り組んだ。苦節2年で、教職員組合の教研で県の代表となり山形の全国大会での発表となった。わたしは、ようやく生業としての美術教師として本格的デビューを果たした。
 続いて'74年に大規模校の新井中学校に転勤した。千人以上の子どもが相手となった。そこでは教師としての当然の業務をこなすことに精一杯という日が続いた。しかし、生徒が発するパワーがこちらのエネルギーになっていった。今度は、現代美術の良さを直接的に生かした教材の開発や生徒の感性に肉迫する指導過程の工夫に取り組んだ。その過程で眼前の越後富士・妙高山に出会った。第一回の芥川賞作家の小田嶽夫氏の作詞の校歌に「神寂び澄める妙高」とある妙高山は須弥山という仏教的世界観の山であった。山が再び見えてきていた。また、'75年の母親の死を契機に結婚という節目を翌年に刻み、名実共に生活基盤の確立に向かっていった。
 少し遡って'71年、北川フラム氏が渋谷を拠点に、ゆりあぺむぺる工房で音楽のイベントを企画したりして今日に至る本格的に活動を開始し始めていた。ちなみにフラム氏は高田高校の一つ下の学年であったが、その当時から得体の知れない大きさを持つ人で、記憶に残っていた人であった。彼より突然に連絡がきた。新潟での山下洋輔トリオを中心とするジャズ・ロックカーニバルのポスターを担当してくれとのこと。その後数年して、フラム氏より「天海航路」という冊子が送られてきた。その中に、氏の父君である北川省一氏の良寛さんが語られていた。しかし、私にはまだ読む出会いがなかった。
 '76年、「天海航路」が終了し、そこに連載されていた北川省一氏の良寛さんがまとめられた。息子の支援による最初の良寛書「良寛游戯」が出版された。新潟・高田発の著作、著者は町の貸し本屋のおやじさんとのこと。しかし、実は北川省一さんは帝大仏文科中退の知る人ぞ知る俊才とのこと。それはわたしたち同じ地に生きる者にとって心より嬉しいことであった。
 著者のサイン入りの「良寛游戯」を手にし、わたしは何かに突き動かされるように、いわば「北川良寛さんの世界」に入っていった。そこで、地について飛び跳ねることばの世界と出会い、初めて読書している実感を持ち魂を洗われた。中でも「越後の大地物語」が感動的であった。そこで知った、良寛の歌。新潟・越後の雪を歌ったうた。
「泡雪の中に立ちたる三千大千世界 またその中に泡雪ぞ降る」
 わたしは、淡雪の中に三千大千世界つまり妙高山のある世界を見ている良寛さんを見た。わたしの心の中で良寛さんのことばが少しずつ反芻するようになっていった。そして、心の中に妙高山が立ち上がっていった。
 しかし、表現は一向にいいものができなかった。顔と髪の毛でインクを拭き取るモノプリントをしたり、みょうばんを体に塗って紙に転写しあぶり出しをしたり、電子コピーで顔をゆがませたり、何故か皮膚感覚にこだわっていた。また、戦時中の天皇の聖像をリプリントしたり、ロッキード事件にちなんで零円切手を展開したりした。
 このように妙高山天皇のことを考えていくうちに、シンボルをキーワードにものごとを考えるようになった。そしてシンボルからサイン、記号論に入っていくことができた。ようやく、わたしの頭に、風穴が開いたような気がしてきた。そして、表現の醍醐味とは見る眼差しとの響き合いを演じること、予兆性をもつことであると考えるようになった。
 '79年(昭和54)の豪雪の年、アジア大陸の砂漠からの黄砂で着色された雪原が一つの啓示をもたらした。黄砂の雪原に手形を押してみた。ひんやりとした手の実感と残る手の跡。これは春の兆し、予兆そして自らの表現。雪にある良寛さんのことばの世界。十年前の「雪のイメージを変えるイベント」で自らに刻印したこととは違った雪への思いが形になっていた。
 次の年、自宅裏庭の新雪に身を投げ出して、写真に納めてみた。実在の凹凸を平面に写すことで生じるイリュージョンの効果で、そこに一つの思いもよらぬ世界が写し出されていた。わたしは一つの作品を発見した。名付けてSNOW PERFORMANCE。以後、しばらく雪の世界に身体を投げ出すことで私の精神は安堵する。雪に身を投げ出すことは、良寛さんの三千大千世界のことばの世界に身を投げ出すこととなった。
 雪降れば、雪掘りの合間に、あるいは勤務校のグランドや裏山の雪原で、身を投げては撮影する。時には、絵の具で着色も加えて。冬になると雪をとらえて、この表現を8年くらい続けていたら、雪の世界がただ冷たいだけになっていった。身を投げ出す行為も、表現効果をねらうだけのものに脱してしまっていた。今度は、普通の美術作家のようにいわゆる市販の画材を使ってみたくなっていた。
 夏場にガレージのシヤッターにペイントしたことが転機になった。現代美術を志して20年を過ぎて始めて本格的に絵の具を使うことになった。わたしのこの絵画への転機にも、時宜を合せたように良寛さんの ことばが飛び込んできた。良寛研究家の谷川敏朗氏によると、この小さな書は新潟県西蒲原郡分水町阿部家の所蔵で百数点一括指定の重要文化財の一点であるという。
   白扇賛
 団扇不畫意高哉
 纔著丹青落二来
 無一物時全體現
 有華有月有楼臺
 この3句目の「無一物の時全体現る」に出会って喜びおののいた。以後、わたしにとって良寛さんは現代美術の大先輩になってしまった。今、このことばに励まされてわたしがある。今、わたしにとって良寛さんはいかなる文脈も超えて、この上なくありがたい存在である。
 以上、わたしの手前勝手な論理による良寛さんである。しかし、良寛さんはどのように扱われても怒らない。良寛さんはわたしのような者にも可能性があることを認め、励ましてくれる。
(アート・マガジン<エル・アール>1998 May Vol 7 に掲載)