Art Site Horikawa-I

書くことを積み上げ、アート生成に向けての発想・構想力を鍛える。

1971年10月

 1971年に入った。3月のピナール画廊での「言葉とイメージ」展で新作「零円切手」とGUN全国郵送戦線の機関誌と「石を送るメールアート」を出品したが、「石を送るメールアート」が朝日新聞の社会面の全国版に取り上げられた。新作に注目が集まらず、石の作品だけで終わるのかという空洞感が残った。その後、写真絵はがきシリーズを展開するも、表現の喜びは少なく、息切れ気味で、発想が停滞してきていた。作家としての自分自身に自信がなく、主体的に動けなくなってきていた。そんな時期に、北川フラムをリーダーとした活動にオルグされることになる。日報の上越支局の某女史から話しがあり、北川フラムらの最初の活動である「新潟/10月・JAZZ/ROCKカーニバル」にポスターと入場券の制作を中心に関与。このポスターは上越の品川アートプロで作成。先代社長の故品川博さんんとのアドバイスをいただきながら恊働的に作成した。4年前に発刊の「希望の美術•協働の夢 北川フラムの40年』44pにこのポスターも記載されている。制作を担当したのは東京であったかもしれないが、東京で作ったように受け止められる。同ページのテキストの記述は正確さを欠いている。

それを今はない厚生南会館での上越市展に4枚組のパネルで出品し一挙両得を図った。そして、この作品で奨励賞を受賞。

また、新潟日報の塩沢拓夫記者による企画・シンポジウム「表現•状況そして新潟」(9月)にも参加。
 これら二つに絡む時期に北川フラムに依頼されて、日報に掲載する方針の下にコメントを書いた。しかし、結局掲載されなかった。コメントを今読むと、個人的なGUNnの活動の捉え直しと心情の吐露だけで、その当時の閉塞感を表すも、公共的なものではない。そのクオリティの問題はともかく、そこで北川フラムとの大いなる乖離を感じたのことは確かである。それは大きなベースの違いであった。北川フラムチームは、その後渋谷を拠点に様々に事業を展開していく。その後、全国巡回のガウディ展やアパルトヘイト・ノン国際美術展などで関わりを深めて行く。
<表現>における<美術>の位相
 <新潟>について怒りなくして語れない。そのようなものとして<新潟>は私の内のあり、同時に私を取り囲む。
確かに、<新潟>を知ったその時には、私はすでに新潟という地にいてしまっていた。なんのへんてつもなく、まさに<すでに在るもの>として。あの、国家のように。
だから、その中で安住していれば、何事も起こらずに済んだのかもしれない。しかし、その幻想はGUNの活動により少しずつ破られていった。
GUNは東京→新潟という社会的.歴史的、地理的ハンディを超え美術の前衛を目指した。自己変革としての月1回の集会をふまえつつ、状況変革としての展覧会、イベント、シンポジウム等々の活動を一年程行った後、メンバー個々の立場をもっと根底的に問い直すべく、取りうる位置での自由な表現や討論、実践の場に中心が移った。個々に通底する変革及び上昇志向を共有しつつ、具体的に協力が必要な時点では個の提案に応じ、それぞれが自主的に参加する形態をとり、現在に至っている。
現在GUNは美術を変革しつつ、美術を超える一点において美術と関わり、社会的存在としての<個の表現>の意味を問うグループとして成長してきた。しかし、我々がこの期間、活動をしながら捉えてきた最も重要な問題は、我々の表現が何者かに奪われているという事実であった。
何をやっても、ついには中央→地方という集権構造、法律、経済、教育、文化等あらゆる領域での疎外、抑圧の中でしか、<制度>の中でしかもがき得ない現実。いかに“中央も地方もない”“状況を攪乱する”といったところで、ついにはその構造に組み込まれ去勢されてしまう。あるいは、自らの内なる中央コンプレックスや無能さの裏返し、また独りよがりでしかないという認識であり、この時代に生き、重みを背負うことに耐えうる思想に欠けていたという醒めた意識であった。
それまでのGUNの在り様は<表現>の問題を<美術としての表現>の問題へと短絡して、芸術至上を否定しながら結果としてそれを補完していた。それは、制度としての美術、美術としての制度の中に在ったのである。
そもそも<表現>とは、人間として生きたいという意志の本能的なあらわれとしてあり、個人の持つ内容と媒介手段の形式が統一化されたもので、社会に<生きる>そのものであり、開かれた体系である。従って<表現>の基底はこの社会、その矛盾、沖縄、三里塚、公害等や軍国主義への地鳴りが感じられる今日の<状況>に在らねばならない。
もし、美術家が作品をつくることのみに満足し、社会的存在としての重みを問わないならば、趣味的、耽美的、芸術至上主義に陥り、幻想に収斂し、取るにたらないイメージや商品の限界内での再生産にしかならないであろう。また、この矛盾だらけの資本主義的構造に飲み込まれてしまうであろう。
先日の新潟でのインポジウム「表現•状況そして新潟」においても痛感したが、新潟の美術状況は旧態依然として中央→地方の抑圧の反動としての公募展至上主義、ローカルカラーへの埋没、かたくなに個人のカラに閉じこもる等である。いずれも<制度>へのアプローチを回避し、既成の枠組みにどっぷりと浸かり表情さえ変えない。それらは県、市の文化組織と密接に結託し、お互いを保守し合い、きわめて政治的に作用している。それは一つの文化による支配であり統制である。ある地域では現状を打破しようと中央の権威者を審査員に招いたり、展覧会の形式をアンデパンダンに変えるなどしているが制度的には何も変革されていない。そのことは出品者や観客を中央志向や芸術という高みの路線へ安易に閉じこめてしまう。自らがこの地に生き、創り出すという志向が最も本質的な層において欠けている。
美術、芸術は社会に対して微力である。そもそも芸術活動は物事を抽象することによって現実からの離陸や逃避を促す任務を宿命的に荷なっている。それ故我々は離陸とか逃避に視点を定めてはならず、表現活動自体を対象化しつつ、想像力により現実の再構成、最接近を計り、止揚へと行かねばならない。それは認識レベルではなく、まさに <生きること>=<行為>において具体化され、強固な運動体として組織されなければならない。現状況における<美術>はそのような位相においてのみ意味を持つであろうと考える。そのような位相において美術家の<表現>が奪還され、その思想的な拠点も捉えることができるであろう。
今、私にとって<美術>は、取りうる表現の一部であり、変革され超えるべき対象でもある。改めて、自らを切り刻み、<今>を<ここ>を<状況>を貫いてある矛盾、制度、疎外構造を突き崩すこと。この地<新潟>をあらゆる能力を駆使し、撃つことから始めようと思う。
 
初稿は1971,10.03付け。(2007,12改めて推敲。誤字、句点の間違いなどが多かったのを修正、若干加筆。)